「頑張っているから批判するな」は思考停止? 免罪符の裏に潜む問題
「頑張り」が免罪符になる危うさ
「頑張っている人を悪く言うなんてひどい」――こんな言葉を耳にしたことはないだろうか。頑張っている姿を批判するのは心ない行為だとする意見は、時に「頑張り」を免罪符のように扱う。だが、極端な話、もし「頑張っている」だけで許されるなら、違法行為に励む人すら批判できなくなる。この理屈にはどこかおかしな点がある。
東京都内の会社員・山田太郎さん(仮名)は、「『頑張っているから』という擁護は、論点をずらしている気がする」と語る。なぜこのフレーズが頻繁に使われ、受け入れられるのか。その背景には、頑張る姿への共感や、深く考えることを避ける「思考停止」の姿勢があるのかもしれない。
スポーツ選手への同情と論点のすれ違い
この問題を具体的に見るため、2021年の東京オリンピック開催をめぐる議論を例に挙げよう。当時、コロナ禍での開催に反対する声に対し、「頑張ってきた選手がかわいそう」という反論が飛び交った。
反対派は「感染拡大のリスク」「ボランティアの過重労働」「巨額の開催費用」といった懸念を指摘。しかし、こうした声に対し、「一生懸命練習してきた選手に罪はないのに、なぜそんなことを言うのか」と、感情に訴える反論が返ってくることがあった。さらに、「選手の夢を奪うのは間違っている」「誰かが不幸になる選択は避けるべき」と、具体策のない「ドリーム回答」で議論が終わるケースも。
このすれ違いについて、スポーツライターの佐藤健太さん(仮名)は「選手への同情は理解できるが、問題の規模や影響を無視して『頑張り』だけを強調するのは非現実的」と指摘する。数千人の選手の努力と、数億人の健康や経済的負担を天秤にかけるのは、単純な感情論では解決できない。
「頑張り」を目的化するリスク
なぜ「頑張っているから批判するな」という主張が問題なのか。根本には、「頑張り」を過度に美化し、結果よりもプロセスを優先する姿勢がある。頑張りは仕事や目標達成のための手段であり、それ自体が目的になってはいけない。さもないと、費やした時間や労力を「価値あるもの」と美化し、無駄な努力を正当化してしまう。
例えば、職場でこんな場面を想像してみよう。部下の田中さんが「今回の資料は電卓で計算しました」と報告。部長は「エクセルを使わず昔ながらの努力をしたなんて素晴らしい」と褒めるが、結果はエクセルと同じ。こうした「頑張り至上主義」は、非効率を助長し、サンクコスト(埋没費用)の心理を生む。神奈川県の経営コンサルタント・鈴木花子さん(仮名)は「努力は結果につなげて初めて意味を持つ。プロセスに満足してしまえば、成長が止まる」と警鐘を鳴らす。
思考停止を脱し、建設的な議論を
「頑張っているから」という理由が嫌われるのは、それが思考停止の産物だからだ。頑張りを称えるのは大切だが、それを批判の盾に使うのは、問題の解決を遠ざける。スポーツ施設の維持費負担や健康のためのスポーツの在り方など、議論すべき課題は山積している。「頑張り」に満足せず、結果を見据えた建設的な対話が必要だ。
あなたは、「頑張っているから批判するな」という言葉をどう捉えるだろうか? それは共感の裏に潜む思考停止のサインかもしれない。
注:本記事はフィクションであり、実在の人物・団体・国家とは一切関係ありません。