エンタメと「不謹慎」の境界:表現の自由を考える
災害や事件を題材にした創作のジレンマ
震災や事件をテーマにしたエンターテインメント作品は、被災者や被害者の感情を刺激するリスクを伴う。殺人事件、交通事故、戦争など、死や不幸を扱う創作は古くから存在するが、こうした作品は常に「不謹慎」との批判に直面してきた。例えば、過去の大戦を題材にした作品が戦後間もない1950年代に次々と登場したが、現代の震災関連作品は比較的慎重な姿勢が見られる。これは「配慮」や「時代の変化」とも言えるが、過度な自粛が創作の自由を制限しているとの指摘もある。
「不謹慎」の烙印と自粛の連鎖
過去の震災時、「不謹慎」という言葉が社会を覆い、エンタメ業界に大きな影響を与えた。テレビCMが自粛され、放送内容が制限される中、普通に生活できる人々が「楽しむこと」を控える空気が広がった。しかし、過度な自粛は経済やサービス業に打撃を与え、結果的に多くの人々の生活を圧迫する。普通に暮らすことが、実は社会の維持につながるという視点が求められている。
不謹慎の「メリット」とは何か
「不謹慎」とされる表現にも、実はポジティブな側面がある。例えば、子どもが戦争や災害を「ごっこ遊び」として再現することで、トラウマや恐怖を客観視し、乗り越える力が育まれる可能性がある。エンタメには、不幸を物語化し、心理的な癒しや理解を促す儀式的な役割があるかもしれない。過度にタブーを設けることは、かえって社会の回復力を損なう恐れがある。
警告文とネタバレの狭間
被害者の心情を考慮し、作品に「津波のシーンがあります」といった警告文を入れるケースが増えている。これは観客への配慮として理解できる一方、ネタバレによって作品の驚きや感動が損なわれるリスクもある。警告文の有無による作品の扱いの違いは、クリエイターにとって新たな課題だ。一方で、理不尽な批判や「気に入らないから叩く」行為も問題視されている。特に、作品を深く知らずに批判するケースは、建設的な議論を妨げる。
規制の裏に潜む利権の影
エンタメへの批判の中には、表現規制を求める声が含まれることがある。こうした動きの背後には、検閲の権限を握ることで業界内の権力を得ようとする意図が見え隠れする。規制を強化すれば、特定の団体が作品の公開をコントロールする立場を獲得し、利権を生み出す可能性がある。このような「ダメ出し」の動機には、警戒が必要だ。
セックス表現への規制と文化的矛盾
興味深いことに、殺人事件のような重大なテーマは比較的自由に描かれる一方、性的表現には厳しい規制が課されることが多い。モザイク処理など、日本の性的表現への規制は、トラウマを持つ人への配慮というより、文化的・法的な慣習に起因する可能性がある。一方で、「海外では緩い」との声があっても、日本の古典文化への批判には繋がらないなど、規制の基準には一貫性を欠く点も見られる。
注:本記事はフィクションであり、実在の人物・団体・国家とは一切関係ありません。