田舎での挨拶

記入日:2003/10/06

この間、道ですれ違った女子中学生と挨拶を交わした。と、いっても、相手が何か挨拶らしきものを言ったので、小声で答えたに過ぎない。私は自転車だったし。

去年まで都市部に住んでいたこともあるが、田舎に帰ってから見知らぬ人に挨拶をされると驚く。特に小中学生に挨拶をされる。しっかり教育されているんだなと思うとともに、都市部との差を考えずにはいられない。

都市部とまではいかなくても、大きな市でもさすがに見知らぬ人から挨拶されることはない。いちいち行き会った人に挨拶していたら、前に進むのも大変になるだろう。ところが、田舎の一本道のようなところだと、無言で通り過ぎるとばつが悪い。

田舎はすばらしいとか、地域とのふれあいが大事だとか、そういったことを強調したいのではない。私はただ、挨拶された後に驚いて、はっきりとした声で挨拶できなかった自分が嫌だったことを忘れたくないのだ。

同時に、田舎と都市の差は、見知らぬ者への対応にも見られるように、疑う文化と信じる文化の違いにある気がする。挨拶とは礼儀である。礼儀は信用のある相手に、もしくは信用して欲しい相手に対してのものではないだろうか。

見知らぬ者でも地元に住むものなら信じることから始めるのが田舎だと思う。仕事を頼むにしても、まず信じることから始まる。例えば、地元の大工に家をつくってもらうとしてもまず相手を信じる。信用された側もそれに応えようとする。なぜなら、地元に拠点を置く以上、ひとつ信用を失うことが今後の仕事をどれだけ失うか知っているからだ。都会のように、人が腐るほどいるわけではないから、限られた客をしっかりつかまえておかなければならない。

逆に都会であれば、田舎と比較すると周囲との繋がりは弱いし、ひとりの信用を失っても客がまだまだいるので田舎ほどの致命傷にはならない。酷い話、ろくな仕事もしないで受けるだけ受け、あそこはダメだと有名になってとんずらもありえる。故に、人は何かをするときにまずあそこは大丈夫かと疑うことから始まる。

だから、古典的な物語では田舎者がよそ者を信用しなかったり、集落から追い出そうとしたりする。それは自衛なのだ。都会と田舎、どっちがどうというのではなく、都会で田舎の論理で行動するのは馬鹿げているように、田舎で都会の論理で行動するのも馬鹿げている。郷に入っては郷に従えとはよくいったものだ。田舎にも都市化のみならず、国際化の波が押し寄せているが。

 

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