買わせ方
この間、食べ物には金をかけない主義だと書いたが、実は甘いものには目がない。たまに、無性に食べたくなる時がある。甘いものの欲求に屈した時は、コンビニで売っているチョコレートケーキやクレープを買いあさって一気に食べたり、スーパーに行ってポッキーやチョコレート系の菓子を千円分買ったりする。
だが、大抵の場合は理性が打ち勝ち、甘いものを山ほど買いこむことはない。しかし、理性が勝ったものの、諦めきれない場合は別の手段に打って出る。それは人に買わせるという手段である。
具体的にどうするのかと言うと、買わせたい相手の周りに買って欲しい商品のチラシなどをさりげなく置くことだ。誰もが思いつく手段ではあるが、実行に移す人はそうはいない。ちなみについ最近、人の車にドーナツ全品100円のパンフレットを置いておいた。
別の手段もある。自分がもっと食べたいものをひとつだけ買ってきて、買わせたい人の前で美味しそうに食べることで相手にもそれを欲しいと思わせて買わせる方法。どっちの方法も最も重要なのは、その物を買ってきた相手から分けて貰えるようにすり寄ることだ(買った人は衝動的に買っているところが強いので、その人にとって購入物の価値は価格よりも遥かに安い。誰かに百円をあげるのは嫌でも、百円の品物ならあげられるといったような感覚)。ここまで書いてきて言うのもなんだが、これはわざわざ書くほどのことでもない気がする。
手を洗うお湯と尻を洗うお湯
自宅のボイラーが故障してお湯が出なくなった。ついこの間、修理してもらったばかりにも関わらずにだ。先の修理費は何だったのかと思いたくもなるが、向こうにしてみれば旧式をいつまでも使ってと言いたいのかもしれない。
ああだこうだ思ったところで、注文した部品が来るまでお湯が出ないことに変わりはない。茶碗を水で洗っていると手が悴んで、「おしん」が川でおしめを洗っている姿を思い出す。昔の人は凄いなと思わずにはいられない。
昔の人の強さとは、あの不便さの中で育ったからこその精神力であり、忍耐力なのだと痛切に感じる。今日、久々に見たプロジェクトXに出てたトヨタの人もだが、今現在の社会の担い手にはない強さに、尊敬の念を抱くところがある。
まさに人を産むのは社会であり環境である。そう、だから私はお湯が出ないのには耐えられない。早く直せ業者、またすぐ壊れたらタダじゃおかないぞ、というのが本音だ。そう思ったとて、何も事態は好転しない。
しかし、お湯で手を洗うことはできなくなったが、お湯で尻を洗うことはできる。ウォシュレットはボイラーと関係ないからだ。手を洗うお湯はないのに、尻を洗うお湯があるとは、ある意味これは科学の皮肉というやつだろうか。
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