ワイルド・スワン

記入日:2004/02/21

「ワイルド・スワン 著 ユン・チアン/訳 土屋京子」を読んだ。最初に読んだのは高校生の時だった。保健室の先生(この呼び方は正式なものではないが一般的なので)に勧められたのがきっかけだった。その時は、最初の纏足の描写で目を背けたくなったこともあったが、いわゆる「 」の台詞があって文章があるといったような小説的な描き方とは違う、ぎっしりと字が埋め尽くされているページに抵抗感があり、途中で読むのを辞めてしまっていた。

高校の頃に読んだときは、確か先生に本を借りて読んだ気がする。今回、読んだのは1998年に改訂された文庫本である。いつどのように買ったのか、今となっては記憶にないが、本棚を整理していると若干本の紙が変色した状態で出てきた。改訂版も買ったものの、途中で読むのを辞めたらしく、一巻の中程にしおりが挟まっていた。

私の投げ出し履歴はどうでもいいとして、この作品は三代の女性を軸に語られる事実である。日本による支配、共産党の台頭、文化大革命という激動の時代を生きた人々の、あまりにも壮絶な人生が描かれている。これ以上の波瀾万丈はないというくらいの波瀾万丈さだ。ワイルド・スワンとは野生の白鳥の意である「鴻」という字を名前に付けられた母、著者(姉もだが)に相当するが、個人的には著者の母こそがワイルド・スワンである。

祖母の時代から読んでいくと中国の近代化が市民の目線でわかる(著者の家族はゆたかな方ではあったが)。姨太太となった祖母の話など、古代中国の話かと思えるほどに私には昔に感じられるが、そう遠くない昔の話なのだから驚く。全時代を通して感じるのはギスギスした人間関係と、それを作り出す社会不安やイデオロギーだろうか。逆にそういった環境だからこそ、人間としての倫理観を持ち続ける人をこれ以上ないほど清々しく感じるのかもしれない。それは人種を越えた感覚だろう。

無論、日本人と中国人という違いは多々あるかもしれないが、感情的にまったくわからないという違いはない気がする。ただ、中国は何分歴史が長いために、その長い歴史の中で形成された古いしきたり、特に迷信にも似た慣習を改めるのは日本よりも難しいのではないかという気がした。また、この文化大革命の傷跡とも言うべきものが、まだ多く残されているような気がする。そう、中国人の性格として。

今、おそらくこの本を日本人が読んだ場合、今の北朝鮮を思い浮かべるのではないだろうか。毛沢東と金正日をダブらせるところもあるかもしれない(親から全てを受け継いだ上に何の成果も上げていないのと重ねるのも何だが)。そういう今だからこそ、再ブームを呼び起こすことができる本だという気がする。

再ブームと書いたのは前にブームがあったと確認してのことではなく、本の帯に「800万部を超えるベストセラー」『イギリスが選んだ「今世紀の100冊」(ノンフィクション部門第一位)』とあるからだ。いかにも売れそうな文句ではあるが、私はこの帯に嫌悪感を抱いた。少なくとも私には、この本はそういう「買わなきゃ時代に乗り遅れる」ことを意識させて、焦らせることで購入意欲をかき立てるような、いかにも商業的なアピールをするべきものではない気がしてならない。利益を得るために発行するものだとしても、嘘が混ざったものでないのなら。

祖帯に関してはまだ言いたいことがある。「26年間いろいろな書物に出会ってきましたが、これほど人物に共感し感動したことはありません」という読者のコメントが載せられているが、この時代の日本に生きた私たちがその時代の中国を生きた人たちに対して、簡単に「共感」という言葉を使っていいのだろうかという疑問が湧き起こった。でもまぁ、これは言葉というものに過剰な反応をする私の悪い癖だからいいとする。

日本での売れ行き

この本、800万部を売り上げたそうだが、そのうち230万部は日本で売れたそうだ。本当に多くの日本人が読んだと書いてあった。この売上げに関してちょっとした懸念がある。日本のある特定層には、この話を単なる悲劇か、テレビでやるような細腕繁盛記のようなものと同じ見方をしている人がいるのではないだろうかというものだ。必要以上に流される北朝鮮の番組や、国民の極貧状況を見て、深く考えずに「かわいそう」を連発して「いい人」ぶることで満足する類を思わず思い浮かべてしまう。

常に関わりあう政治と社会生活、政策が生む人間性をどこかにやり、「いい人」「悪い人」に出てくる人を区分けした上で、耐えて信念を貫こうとする側に感情移入し、自らが悲劇のヒロインとなったかのように錯覚する。そんな読み方をしてほしくはない。なんだか、前の日記とダブるところがあるかもしれないが、そういう人間がいるのでやはり書いておきたい。

 

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