漫画へのツッコミ

記入日:2004/03/07

子供の頃に買ったマンガを読み返してみると、やたらと突っ込みたくなってくる経験はないだろうか。悪の組織の収入源は? という基本的なことから、地球を汚す人間を抹殺して地球を綺麗にするという話を聞いて、管理されなくなった人工物は恐ろしいことになるのではないか、とか。

はたまた、人を呪うことは罪にならないとあるが、実はあったりするとか(今はなき<今日終わった>特命リサーチでやっていた)。森林伐採を何万部も売れているマンガで嘆くな、とか。年寄り相手に「稼ぎもしないで食ってばかりで邪魔」と言っているが、たいして病気もしていないその老人の「年金」という「収入」はどうした、など。

よくあるのは「地球温暖化」は「人間の勝手さが招いたもの(他の原因はなし)」と主張するものに対して、温暖化は氷河期があるように繰り返し(周期的に)起こっているんだけど、というものだ。

この手の話題に関する面白い意見として、「日本の論点2004」の伊藤公紀氏の『二酸化炭素削減は本当に役立つか――「温暖化の常識」のウソを徹底検証』がある。対論がどんなものか読む価値はあると思う。

少々レベルの低い”常識”として「北極の氷は海に浮かんでおり、溶けても海面はあがらない」というものが載っている(現在の海面の上昇理由は、海水の膨張が半分程度で、残りはアラスカ氷河などの陸氷<極地以外>の融解による)。地球でもっとも温暖効果が大きいのは水蒸気であり、全体の90%以上を担うそうだ。

漫画家の方も学校を卒業してすぐに執筆活動(?)に入ったり、漫画家になるために他を犠牲にしたり、仕事にした後は調べる時間もないほど多忙だったりするのだろうと思うと、細かな突っ込みはいただけないかな思ってしまう。要は大事なテーマがそこにあるか、なのだろう。願わくば、情報を与える側として正しいものをと思わずにはいられないが。

耳をすませば

テレビでやっていたのを観た。一言で言えば、苦手な部類の作品である。観ていると気恥ずかしくなってきてしまう。面白かったかと聞かれると「う~ん」なのだが、つまらなかったのかと聞かれても「う~ん」である。苦手の理由が少女マンガ原作だから、というのではないと思う(今となっては珍しいくらい、少女マンガらしい少女マンガな気もするが)。少女マンガ自体は、学生時代に女友達に勧められて見たことがあるからたいして抵抗はない。

逆に、少女マンガに出てくるような男になりたいとすら思ったことがある。それは少年マンガに出てくる女が「こんな女いないって」なように、少女マンガに出てくる男が「こんな奴いねぇ~よ」ないい男であるが故に、理想のタイプとして彼女たちの夢になっているからだ。思い出すのも恥ずかしいが、「こんな男がいたらなぁ~」という彼女たちの夢に私はなりたかったのだ。

マンガとは読者の夢というか欲望を具現化した、読者の鏡のようなものだとつくづく思う。だからかえって、映された自分が、思い出した若き日々が、恥ずかしかったのかもしれない。

肝心の内容で触れたいことと言えば、登場人物が口にする「才能」という言葉に関してだけだ。とある脚本家の方は、物書きになろうとする子の親に「この子には才能がありますか」と聞かれ、「私は才能があるかないかわかるほど、この道に詳しくない」と答えた。幾多の作品を生み出した方がそう答えたのだ。私は「才能」で勝負する世界の奥深さを感じずにはいられなかった。

「あなたには才能がない」とは軽々しく口にするものではない。その言葉は、その世界を知り尽くした者のみに、ある・なしをつけて使用が許されると私は今でも思っている。主人公の女の子が、自分で書いたものの感想を求めた後、「最後の方は滅茶苦茶で」と言ったとき、相手の老人が「才能」の世界で生きてきた人ならばホッとしたのではないだろうか。

「作品」を他人に提供する人というのは、「第三者の目」を自分に対して持つことが必要だからだ。独りよがりではいけない、受け手の立場で物事を見ること、それがどんな「才能」の世界でも最初の壁になっている気がする。

最後に著名な人が残した「才能」に関する言葉を書いて終わりにする。ゴーリキーは「才能とは、自分自身を、自分の力を信ずることだ」と言い、ホフマンは「才能を疑いだすのが、まさしく才能のあかしなのだよ」と言っている。実に難しいものだ。彼らの言葉を受けて、私が強いて「才能」について言えるとしたら、「勘違いも才能のうち」である。

 

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