合意による妥当化

記入日:2004/04/21

何で人質事件に関して日記で書き続けているのか、自分でもわからないところがあったが、今日ふとしたことからわかった気がする。最初は事件当初に書いた感想しか持っていなかったが、進展する過程において私自身の興味が事件そのものよりも、世論の変化に移っていくことで追い続けてしまった気がする。

と、いうことで今日もあの事件について。ただ、今までとは違うアプローチで書いていきます。まず、アッシュ(Asch,1951)という方の実験について紹介します。

被験者は他の参加者と一緒に実験室に入ります。実験室は長方形のテーブルに沿って、8つの椅子が並べられており、被験者は8番目の椅子に着席します。実験では、スクリーン上に投影されたいくつかの線分の長さを、実験参加者ごとに順番に比較判断するという作業を行います。

A ――――

a ――

b ――――

c ―――

1番目の椅子に座った参加者の回答はa、2番目の参加者の回答もa、以下他の参加者もすべて自信を持ってaと回答します。もし、被験者があなたなら自分の目に従ってbと答えるでしょうか? この「他の参加者」は実験への協力者(サクラ)で、あらかじめ誤った回答をするように依頼されていました。つまり、サクラの行動が8番目の椅子に座った被験者の行動に影響するのかというのが、この実験の主要な関心だったのです。

結果、被験者の32%がaと回答する同調行動が観察されました(同調<conformity>:社会心理学において他者や集団からの圧力により人の意見や行動が変化すること)。また、7人のサクラが一枚岩でない場合、同調率は次のように変化しました。

サクラの一人にbと正答させた場合、多数派への同調率は32%から5.5%に低下し、このサクラがbではなくcと誤答した場合でも、同調率は5.5%前後と低いままでした。このパターンから、多数派への同調行動を低めるのは、自分を支持してくれている人間が存在するかどうかではなく、グループの一枚岩が崩れることにあります。グループ内に「変わり者」が存在する限り、「別の変わり者」も存在できるわけです。

こう考えると、いろいろな意見が出るという状況の大切さがわかります。抑圧されてひとつの意見しか許されない環境において、新たな発想というものがいかに出にくいかがわかる気がします。そして、人間が他者の言動に流されやすいということも……。

この実験を踏まえて社会学者グラノヴェター(Granovetter,1978)の提案した閾値モデル(threshold model)の話をします……といきたいところですが、説明が面倒なのでサラッと済ませます。「周囲の○割がある行動をしたら自分もその行動をする」という人がいます。○割の値が1割という高感度人間がいる一方、9割という低感度人間もいるでしょう。ここでの「周囲の○割が~その行動をする」という部分は、その人の社会的感受性に関する閾値と見なすことができます。

こうした社会的感受性に関する閾値が、ある集団や社会の中で次のように分布していたとします。1割が5%、2割が13%、3割が32%、4割が20%、5割が15%、6割が5%、7割が4%、8割が3%、9割が2%、その他……。

この場合、周囲の3割程度が動いたら動く人の割合は50%です。こう聞いただけでも、多くの人が動き出すか否かの境目があるのではないか、ということが漠然と思い浮かぶかと思います。さすがに、これだけではわかりづらいので一つの比喩を出します。

100頭のシマウマがいます(社会的感受性の割合は先と同じものを使用します)。ライオンの気配を個別に感じて、40頭が走り始めたとします。個体としてそれぞれ反応したわけですので、この40頭の中には社会的感受性の高いシマウマも低いシマウマもいます。たまたま感じなかった残りの60頭に関しても同じです。

全体の7割が走らないと自分は走らないというシマウマは、4割が走り出したという社会状況に影響されて、今まで走っているのを止めたり、あるいは止まったままでいます。一方、感受性の高いシマウマ、たとえば、全体の2割が走ると自分も走るシマウマは、そのまま走り続けたり、あるいは新しく走り始めます。さて、全体としては何が起きるでしょうか?

4割の閾値をもつシマウマの比率は全体の70%を占めています。このことは、4割のシマウマが走り出したという社会的事実に感応して、次の時点では7割のシマウマが走ることを意味します。さらに次の時点では、7割以下の閾値をもつシマウマ(全体の約95%)がすべて感応することになりますから、今度は全体の約9.5割のシマウマが走ります。こうしたドミノ的プロセスが繰り返されることにより、最終的に群れ全体が走り始める結果となります。

逆に、最初に走り始めたシマウマが20頭だった場合、2割以下の閾値を持つシマウマの比率は全体の18%です。この結果、次に走り出すシマウマの比率は2割から1.8割に落ち、以下、上とはまったく反対のドミノ的プロセスが起こることで、最終的には群れ全体が停止します。このシマウマの例の場合、初期値が22頭を超えるかどうかが、現象の拡大・収束の分かれ目となります。この分かれ目のことを限界質量(critical mass)と言います。

以上のような事例を踏まえた上で、他者の行動の情報価にもとづく社会的影響、情報的影響(informational influence)について書きます。フェスティンガー(Festinger,1954)は、社会的比較(social comparison)という考え方から情報的影響を論じています。フェスティンガーによると、事態に対する自分の認識の正しさが物理的手段で確認できない場合、人は他者との比較によりそれを確認しようとします。

もし自他の、あるいは多くの人々の間で一致が見られるようであれば、人はそうした認識の妥当性について確信を持つようになります。こうした社会的確認のプロセスは、合意による妥当化(consensual validation)と呼ばれています。

さて、ここまで書けば私がどんな点に着目し、どこを注意して見ていたかをお伝えできたと思います。今まで事件の分析のようなことばかり書いてきましたが、総括するうちに何かこう興味の所在が別にあるなと気づいてしまったので、長々とこんなことを書いています(最初にも書きましたが)。無論(?)、これを書いたのは私自身の勉強に他なりませんが、自分が確かだと思っていることのあやふやさと、同調の怖さや閾値の例に見る行動原理、それに多大な影響を与えるメディアというものを改めて考えてもいいのではないか、ということでお開きといたします。

※ 先に挙げてきた例は現象を説明できるひとつの例に過ぎません。絶対の答えではありませんのであしからず……。また、私自身、この分野に関して勉強中の身でありますので、各所に見られるであろう至らなさはどうかご容赦ください。

参考文献:複雑さに挑む社会心理学 適応エージェントとしての人間、亀田達也・村田光二 著(有斐閣アルマ)

実践、合意による妥当化

前に書いた「合意による妥当化」の身近な例というわけではないが、ちょっとしたことにおいて私はようやく確信を得られた。それはスーパーに置いてある牛乳パック回収用の箱のことである。回収箱には「牛乳パック」とデカデカと書いてあるために、今までずっとためらいを感じていた。

何をためらっていたかと言うと、牛乳以外の紙パックは入れてもいいのかということについてだ。馬鹿らしいと思う事なかれ、回収箱を開けて中に牛乳パックしかなかったときなど、開いて綺麗に水で洗って乾かした野菜ジュースの紙パック(リサイクルのマークが付いた)を持ってきていても、入れてもいいのだろうかという迷いが心の中に広がっていくのだ。

牛乳パックと書かれたこの箱にこれを入れてはいけないと思ったとしても、今度はリサイクルできる資源を一般の燃えるゴミに出すと言うのかという思いが湧き起こってくる。よ~く考えてみろ、牛乳パックだろうが野菜ジュースの紙パックだろうが、物質的には同じものでリサイクルできるものには変わりない。リサイクルする目的も同じであれば、行程も同じではないだろうか、そういう論理的思考の後にようやく入れることができたのだ。

しかし今日、果汁100%ジュースの紙パック等の牛乳パック以外の代物がたくさん入っているのを見て、私は何のためらいもなく箱の中に紙パックを投下したのだ(業者さん、間違っていたらごめんね)。だが、今となって気になることもある。最初に牛乳パック回収箱に牛乳パック以外を入れたのは自分ではないか、最初の「変わり者」を演じたのは私ではないのかという危惧がある。

もしそうであるならば、私は私の行動を受けた人が取った行動にさらに影響を受け、周り巡ってきた自分の行動に確信を持ったことになる。これではまるでデマの広がり方のようではないか(二度聞くことによる信憑性)。まいったなぁ……。今度、店の人に入れてもいいか聞いてみよう。最初からそうするべきだったなぁ。

 

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