砂の中のダイヤモンド

記入日:2004/05/08

道ばたに落ちていた透明で小さな物体に目を奪われた。それはキラキラと太陽の光を反射し、「私に拾ってください」と語りかけているようだった。私はそれを手にとってよく見てみた。典型的なダイヤモンドのカットがされたプラスチックだった。

プラスチックというのはあくまでも私の見解だ。手に持ってみて軽かったので、いや道ばたに落ちていたのでそう判断した。その物体はもう手元にない。もし、ダイヤモンドだったらと思うとある意味ぞっとする。まぁ、そんなことはないだろうけども。

こんなことがあって思ったのは、私はまともにダイヤモンドすら見たことがないんだなということである。本物を知らないから、偽物に対する判断に絶対的な確信が得られないことが悔しい。それは、私の人生がダイヤモンドに縁すらない侘びしいものだったという気になるからだ。

正確に言えば、ダイヤモンドのアクセサリーをあげたことはあるので縁はある。だが、宝石自体に興味がなかったので、自分の手に持ってみたことがなかったのだ。ただ、もしあのときあげた人から借りて触れたとしても、今日拾ったものほど大きいものではなかったので、やはり確信は得られなかっただろう。

だからそう、いつの日か大きなダイヤに触れてみたいものだ。他の宝石類もそうだ。すべては、思いがけなく拾ったときのために……。

噂のある人間関係

ちょっとした知り合いの女性に彼氏がいるのではないか、という情報を聞いて少なからずショックを受けた。別にその人を好きだったとか、狙っていたという理由でショックを受けたわけではないと思う。何にショックを受けたのかと言えば、こうだと言い切れる理由はないのだが……。

たぶん、磯野貴理子(漢字、合ってるかな?)の結婚を聞いてショックを受けるようなものだと思う。その人に失礼な言い方だが、「まさか、あの人に……」的に思っていた部分が少なからずあったのだろう。本当に無礼千万な話だが、そういった意味合いでのショックがあった気がする。

ただ、唐突にそういうことを言われた驚きもあるにはあるのかもしれない。今まで、というかここ数年の間、私の人間関係は共通の知り合いが少ない者同士での関係が主だった。たとえば、私にAという人と知り合いと、Bという知り合いがいたとして、その両者には何ら繋がりがないといった具合の人ばかりだった。

だから、私は噂慣れしていないのだ。共通の知り合い『あの人』は「実はああなの」という言い方を聞くのが久しぶりだった。これを聞いたとき、仕事関係以外での人間関係というものを実感できて、「ああ、人の中にいるんだな」と思えてしまった。変な話ではあるが……。

この手の情報は往々にして女性の知り合いからもたらされる。「あの女性には男がいる」といった類の話を男の知り合いから聞くことは少ない。何故だろうか? 男同士では恋愛の話題は二の次になりやすいと言えばそれまでだが、たぶん、女性の方が同性を「異性から見た同性」という視点で見ることができるからではないかとも思う(詳しい解説は出来ないが)。

「かわいい子を紹介するね」といって無意識のうちに(?)自分よりもワンランク下のルックスを取りそろえ、その集団の中で一番になろうとするのも、またそう出来るのも、そういった感覚に優れているからだと思う。男の場合、男が惚れる男を選び、女性受けが悪かったなんてことがよくあるのに対し、女性は実によく「目が利く」。

今回の私のケースでは当てはまらないが、高校時代などには意中の男が気になり始めた女性の悪い噂を流すことで、その人の注意を別の女に行かないようにするあざとい人も見かけた。その気になり始めた女性が彼女の友人であっても……である。なんだか、冬のソナタのような話だが……(典型的なお邪魔女が出る辺り、一昔前の少女漫画を思わせる話だ)。

そのことを思い出すたび、恋愛成就に手段を選ばなくなった女性は怖いなと背筋に冷たいものを感じる。それこそ、いつも私の前でにこやかに、何も考えてなさそうな笑みを浮かべていたあの人が……と、遠き日の記憶が今もなお私の心に影を落としている。

話は変わるが、真珠のアクセサリーが落ちているのを見かけた。真珠のと書いたが、たぶんイミテーションだ。この間のダイヤモンドではないが、こういったものを偽物か本物か見分ける能力があれば、そして落ちていたものが本物だったらなぁ~と今日も思う次第である。

その名を聞けば

どうも気が沈んでやる気が湧いてこない。このままではいけないと思うのだけれども、活力が失われたまま戻ってこない。よく食べ、よく寝たつもりでも、どこかまだ疲れている気がする。人付き合いの中の些細なことが気になって仕方ない……。

そんなとき、うつの話を聞くと自分はうつ病ではないかと思えてくる。よく眠れずに朝早く起きる、自分はダメな人間だと思えて仕方ない、言いようのない絶望感に打ちひしがれている、意味もなく焦っている……。「ああ、やっぱり自分はうつだ」、そう思いたくもなる。

実際、誰でも少しはその症状に当てはまるところがあるのだからしょうがない。ただ、医師でもないのに自分で勝手に思いこむのが一番危険だ。仮にうつだとしても、うつは脳の疲れと思って脳を休めることを心がければよくなる病気だそうだ。運動も効果的だと聞く(昨日今日、知ったわけではないが)。

まずは冷静になって現状を考えてみることだ。よく眠れずに朝早く起きるのは、マットレス代をケチって硬いベッドに寝ているからである。自分をダメな人間だと思うのは、それが事実だからである。言いようのない絶望感は、悲劇を気取って浸っていたかったに過ぎない。意味もなく焦っているのはそそっかしい私にはよくあることだ。ほら、いつもの私ではないか。

しかし、この気の沈みは何だろう? 昨日書いた内容が内容だけに、実は無意識のうちに心惹かれていて大きなショックを……と思ったが、そうではない。このやる気のなさはそういった類のものではない。何も難しい判断がいるものでもない。カレンダーを見ればわかることだ。

これは五月病だ。病名がわかった途端、結末を楽しみに読んでいた漫画の最後が夢落ちだったようなガックリ感に襲われる。同時に、名前さえわかればその症状を克服した気にさえなってくる。原因不明の腹痛と思っていたものを「今年の風邪は胃に来るんですよ」と言われた途端よくなるように、人は不思議と根本的な問題が解決していなくても、それが何であるかということを知りさえすれば元気になれる。病は気からとはよく言ったものだ。

一応、補足としてうつ病はまじめで責任感が強く、几帳面な人がなりやすいということを付け加えておきます。こんな文章を書いた後では信じられないかもしれませんが、私はかなりそういうタイプの人間です。困ったくらいにね……。

 

ランダム・ピックアップ