ハリーポッター 賢者の石

記入日:2004/06/25

テレビで「ハリーポッター 賢者の石」がやっていたので観た。この映画、実は映画館に見に行ったことがあるのだが、序盤と後半数分しか観ていない。寝ていたからだ。別に映画が退屈だったわけではなく、仕事の疲れが溜まっていたのだと思う。疲れているなら見に行かなければいいのだが、ある人と見に行く約束をしてしまったので行かざるを得なかった。

一緒に行った女性には原作の本を貸し、結構おもしろいよと言って見に行っての失態だった。その上、思い切り眠ってたいして観ていないにもかかわらず、映画はかなり端折っているから原作の方がいいなどと言った。「おいおい」と我ながら言いたくなる……。

で、そのハリーポッターを改めて観た。序盤部分は観られなかったが、たぶん映画館で観たと思うので一応全部観たことにはなるだろう。見直してみて思うのは、子ども向けの感は拭えないなということと、日本で言えば少年探偵団のようなものかな、ということである。無論、そこにファンタジーという要素と、いくつも散りばめられた伏線が存在するのだが。

そのファンタジーブームについて少し書いてみたい。ロードオブザリングが完結した今、ファンタジーブームもないのだろうが、ここ数年その手の作品がよく出回るようになった背景には、やはり現実世界を舞台にした作品への飽きがあるような気がする。また、ファンタジー世界では作者自らが世界を創造できるので、メッセージを伝えやすい世界を構築することで、多くの漫画もそうだが作者のメッセージがストレートに伝わることが大きいと思える。

昔ながらの童話や神話の「○○をしてはいけない」などといった禁忌が、物語を通して確実に読者に伝わるところと、ファンタジー作品が持つメッセージ性には似ているところがあると言える。何を伝えたいのかわからない、テーマ性が欠如した作品が増え、名監督による難解な作品(実は単なる出来損ないが多い)すら出てくる昨今、受け入れられるべくして受け入れられたものだという気がする。

また、そこには創作物に慣れ親しんだ土壌というのもあるだろう。昔、あるラジオドラマが放送されたとき、リスナーのひとりが、「(ドラマの登場人物の一人は)ひどいヤツだから懲らしめてやる。何処にいる?」と放送局に電話をかけてきたらしい。現実と空想の境界が曖昧だった、というよりも創作物に触れる機会がない人(フィクションの概念がない人)が普通にいたと言えるだろう。

そのころに、やれドラゴンだ、魔法だ、冥界の王だと言っても、想像力の乏しい頭ではついてこられなかっただろう。その点を考えるに、フィクションという概念が、もうすべての人と言っていいほど多くの人に作られたと言えるような気がする。一方で、空想の世界に慣れてしまったが故に、現実世界をよりいっそうつまらなく感じてしまうこともあるのではなかろうか。

 

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