プチ悲劇渇望症

記入日:2004/06/25

この間、雑誌で「増えるPTSDの誤診」と題した記事を見た。そこには、精神科に通う人の増加と、その原因として「飢えが無くなった今、それに代わりうる悲劇としての心の病」といった感じのことが書かれていた。記事を見るまでもなく、そんな傾向があるような気はしていた。昨日の日記とだぶるが、自分を演出する要素としての『悲劇』を欲している人が多いのだ。

『悲劇』はドラマ性を持つ。自分を、ドラマ性を持った「特別な何か」として昇華させる要素、それが「飢え」のような見た目の醜さを伴わない、ビジュアル的にもいい「心の病」なのだろう。これでは、本当に「心の病」を煩っている人が悲惨である。何時間待ち数分診療ではないが、たいして悪くないのに病院に行くような人が増え、本当に診てもらいたい人が診察される時間が少なくなってしまう(一般の病院の内科も、地方に行くと老人の憩いの場と化している場合も。最近は「老いたのだから仕方がない(ある程度の調子の悪さは)」というのを見ないなぁ)。

また、診察する側への懸念もあるだろう。「増える誤診」とまで書かれれば、そもそも精神病の鑑定というのはどんなものなのかという疑問に行き当たる。よくよく考えれば、他人の心の中など誰ものぞけやしないのだ。それを無視してカウンセラーや臨床心理士が心のエキスパートで、何でも見通すと思う方がおかしいのではないか。

現に、米国のある心理学者の出した論文には、「臨床心理士の治療は効果があるのか」について、統計的に治療を行った方が早く治るという結果は認められなかった、というものがある。言うまでもなく、それで飯を食っている臨床心理士の団体からは非難があった。この事例を用いて心理学そのものを否定しようというのではない。あくまで、人の心はわからないことだらけだと言いたいのである。

みんながヒロイン

人の心は複雑怪奇である。その人の生い立ちやそのときの感情、その日の天候や気温に湿度、果てはその日に食べたものや交通手段。そういったひとつひとつの細かなものが、日々私たちの行動に影響している。それを、平面的な「○○したら、人は○○する」「○○が好きな人は○○の傾向が見られる」と言ってしまう無神経さや、言われるまでもなく誰もが感じているであろう心の働きにいかにもな専門用語を付け、重大な法則を発見したかのように振る舞うのは救いがたいが……。

話が逸れた。日常を少し楽しくさせる要素としての『悲劇』。それも、絶望的なものや格好の悪いものではない、『悲劇』を気取れるレベルの『プチ悲劇』がもてはやされている。この背景には先に挙げたフィクションに慣れ親しんだが故の日常の退屈さがあると思うのだが、その中でも近年顕著に見られる「誰もがヒロインになれるストーリー」の増加がある(前に書いたかなぁ?)。

以前、漫画などで主役といったら他の登場人物にはないずば抜けて違う能力を持っていた。人気投票をやれば主役がトップになるのは当たり前で、他のキャラは文字通り脇役でしかなかった。脇役は本当に主役をもり立てるための存在だったのだ。

ところが、誰が主役になってもおかしくない作品が増えてきている。ものによっては、話によって主な登場人物の中の誰かにスポットが当たり、その人のことについて掘り下げるような話が展開される。それはそれで、物語の見せ方として、深みを持たせる効果があるだろう。

しかし、その弊害として「みんながヒロイン」精神を持たせてしまったのではないかとも思えるのだ(勝手なことを言ってるなぁ)。幼稚園のかけっこにおける「みんなが一等賞」ではないが、現実の競争社会を無視した軟弱な精神の発露である。

そんな精神の中で育てられ、「さぁ、実社会の荒波を渡っていけ」と言われても土台無理な話である。実社会は競争社会である。ビリになったって誰もかわいそうとは言ってくれない。実社会から離れて生きるものの綺麗事など通用しないのだ。もし、そんな綺麗事がまかり通るなら資本主義社会は成り立たない。

そういった観点からも、どんなにおもしろい創作物に出会ったとしても、あくまでそれがフィクションに過ぎないものであり、現実とは大きく乖離したものであるという認識を持って見ることが大前提なのだ。

ハリーポッターには、望みを映すような感じの鏡に映った両親の姿を追い求めるハリーに、ダンブルドアが「夢にふけって生きるのを忘れてはいけない」と言うシーンがある。著者がそれを意識したのかどうかは知らないが、私には「夢中になりすぎてくれるなよ」というメッセージだという気がしてならないのだ(鏡自体、重要な伏線でもあるのだが)。

 

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