山の郵便配達

記入日:2004/07/07

「山の郵便配達」を観た。中国語を習っている身としては、字幕は出ているものの知っている単語はないかと耳を澄ませてしまった。で、ストーリーの方はずっと山の郵便配達を続けてきた父が息子にその仕事を引き継ぐ時の話である。今まで交流が少なかった親子の心のふれあいを描いた作品である。

牧歌的な風景というよりは、何もない山間部というに相応しい場所を行く親子二人。その光景に私は故郷と祖父と父の関係を思い出さずにはいられなかった。また、親と子、そういった世代間の受け渡しとは、子孫繁栄とは、本来こういったものなのだなと思えた。

見終わった後、側にいた人が「パクリ」という言葉を口にしていた。何が何のパクリかは知らないが、ちょっと気になった。先に何を観たかによって、どっちがパクリになってしまうか決まってしまうので、この手の言葉はやはり気にかかる。

ブラックジャックによろしく第九巻

ブラックジャックによろしくの第九巻を買った。今回から精神科編が始まっている。正直言って、今までで一番読んで衝撃を受けなかった。何故なら、そこに描かれていることは数年前から既に「知った話」だったからだ。何をどう知っているかは深く語れないが、まだまだ精神病というものの序の口に過ぎないという気がした。これから、戦後の日本における政策や海外との比較、心の病の発症率の多さなどが描かれていくと期待している。

さて、この話の中に出てくる患者の男の子の母親が、患者に対して「いい子」という言葉を使ったときに思い出したことがある。それは「いい子にしなさい」という叱るときの決まり文句が連想させる「人を恨んではいけない」という教えだ。

私はこの教えが嫌いであると同時に、間違っていると思っている。こう書くと倫理的に問題ありと言いたくなるだろう。しかし、よくこの言葉を考えて欲しい。「人を恨んではいけない」とはどういうことなのか。

「2004/06/28 主権委譲」において、その答えのようなものを書いているので、そこの部分だけ次のように抜粋した。

『友愛やその他の正の感情は通常の状態で抱くことができるのに対し、負の感情は追いつめられたときや傷つけられたときに持つものだ。追いつめられ、傷ついた人間は通常の状態よりも「生」への渇望が薄れている。あまりの辛さに「死」さえ意識する場合がある。

だが、人間も生物である以上「子孫繁栄」が種の命題であり、そのために「生きる」という本能的命題が備わっている。すなわち、生きなくてはいけないのだ。その生きるための性質が憎しみを抱くという心理パターンだと思える。追いつめられ、傷ついて、生きる希望をなくした……。

ここで死を意識してバタバタ死んでいっては種の繁栄はあり得ない。そこで、傷ついた気持ちを怒りや憎しみに転化することで、人は「生きる目標(生きる力)」を得ることができる。そして、生きていくのだ。よくできた感情のメカニズムではないか(この負の感情により他者の命を脅かすこともあるが)』

憎しみを、人を恨むのには訳がある(中には被害妄想の強い人がいて、本当の意味で間違った憎しみを抱く人もいるが)。現実問題、「罪を憎んで人を憎まず」なんて器用なことや「人を許す」というのにも時間とそれなりの相手の態度が必要だ。いきなりの一方的な「恨むな」は精神的な負荷にしかならない。相手に向かうはずの怒りというストレスが自らに残り、心身共に悪影響を及ぼす。

そもそも、ストレスとはその環境にあることが心身にとって望ましくないという心の危険信号である。相手に対して恨みを抱くというのは、その相手がその人にとって有害だから避けた方がいいという心の合図である。それを「いけない感情」とばかりに抑えつけていても何の解決にもなりはしない。

無論、社会生活を送っていく以上、幾度となく我慢しなければならない場面に出会うだろう。それを我慢するなというのではない。「嫌なものは嫌でいい」、無理に自分の感情まで変える必要はないという話である。そう、例え仕事上付き合わなくてはいけない人であっても、仕事に支障を来さないのなら感情がどうであろうと構いはしない。

「人を恨んではいけない」という教えを素直な子ほど無条件に飲み込んでしまう。「いけない感情」を抱くと自分を罰し、余計にストレスを増大させていってしまう。しかも、その手の子というのは溜まっていくストレスに対して鈍感だったりする。だから、「建前」の通じない子ども相手にむやみやたらに綺麗事でしかない教えを説くのはどうかと思うのだ。

 

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