社会心理学の適応

記入日:2004/09/12

久々にとある科目の勉強を半日にした。その教科で使っている教科書は、「適応」という視点から人間やその集団を心理学的見地から分析している。今日やった部分には次のような一文が載っている。『感情は「野生環境」へ適応するために、生物が進化の過程を通じて完成度を高めてきた心の働きである』。

これは戸田正直という人のアージ理論に関するものである。この教科書では その説明として、『ポジティブ(肯定的)な感情は心身の健康に良い影響を及ぼす "適応を促す心の働きだ"。それに比べて、ネガティブ(否定的)な感情は適応的ではないのに何故ある?』という疑問を挙げ、「恐ろしい」という感情が何故必要だったのかについて書いている。

人がサバンナでライオンと遭遇した場合、逃げなければ命を落とすから、「恐ろしい」と瞬時に判断する必要がある。判断が遅れると致命的なため、対象や状況の特徴を詳しく検討する余裕はない。そこで、情報処理過程(あるいは認知)は必要最小限の形で自動化される。しかし、ものごとをやるには「やる気」というものが必要なように、「逃げる」ときも「やる気」を起こさなくてはいけない。

だが、生きる死ぬの瀬戸際で「やる気」を起こさないのは、どう考えても適応的ではないということで、強い「やる気」を無条件でそこに発生させる必要があった。つまり、それが「恐れ」という強い「動機づけ(motivation)」というわけだ。ただ、その感情が現代社会でも適応的かという疑問もあるわけである(何年もかかって形成された感情だけに、変化するにはまた何年も必要だという)。

老いていく過程での適応

そういった疑問と説を聞くと、「最近の若者は」と常に若者は年寄りに理解されえぬ存在だったのは、この「適応」のなせる業なのかと言いたくなる。亡くなった親友の代わりとなって、その親友の子を育てていた人がその子に刺されて亡くなったが、犯人は親代わりとなった人に金をせびりに行っていたという。この恩を仇で返す行為、このせびりに行くという恩義の感じなささえも、適応的と言えてしまうような世の中なのか、などと意地悪な言い方をしてみる。

でも、考えてみれば、である。人間は老いていく過程においてもより適応的になっていく。恥も外聞も捨て、図々しくも厚かましくもなる。オバタリアンなんていうのはその典型的なものだろう。何故そうなるか、といったらこの世の中ではそのほうが適応的だからだ。適応的な方が生き残るとしたら、何とも醜い世の中ではないかと思えてならない。まぁ、若いときからオバタリアンだと近寄る者も少ないので、全年代において適応的とは言えないところにまだ救いがある。

それはそうとして、サバンナでライオンに遭遇した例が挙げられているが、実際にはこんなことはあり得ないだろう。ライオンに襲撃されるという「恐れ」を抱いて逃げたところで、どれだけの人がライオンから逃げおおせるのだろうか。大半は逃げ切れずに喰われて亡くなるのではないか、だとしたら「恐れ」も何もあったもんじゃないと一応言っておく。

 

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