知人の仕事観

記入日:2005/03/13

様々な職種の社会人が仕事内容の説明をする授業を行うことを主な活動としている団体に属している知人の言に思うところがある。大学の授業に出るために定時で終わる簡単な仕事をやり続けて、20代後半という時期を過ごしてしまうことに彼女は疑問を持っているようなのだが、その疑問自体はわからないではないのだが続く言葉が気がかりだ。

あの団体の授業に刺激を受けて、というのである。何が問題かと言えば、刺激を受けた先の人間と彼女の能力や意志の差だ。中高生に自分の仕事について話そうとする人たちなので、それなりにというか結構成功している人たちである。たとえ成功していなくても自分の仕事に誇りを持っている人たちである。

それに比べて彼女は何か確固たる意志があって大学に入ったでもなく、学歴コンプレックスを抱き、有名なものに必要以上の権威を感じ、イケてるかどうかでものを見る人なのだ。故に私は彼女が短絡的思考で就職活動に当たっていくのではないかと危惧しているのである。

それからもうひとつ。これは私を含めた他の人にも言えることなのだが、自分はどちらの人間か見極めることがまず先にあると思われる。どちらの人間か、つまり変化を求める方なのか、平穏を求める方なのかということである。

同じ毎日を繰り返す方がいいという人もいれば、逆に毎日が変化に富んでいた方がいいという人もいる。仕事に忙殺されてもそこにやりがいを見いだせる人もいれば、何よりプライベートを重要視する人だっている。その見極めがなされないまま選んでもなかなかうまくいかない気がする。

まぁ、人間というのは複雑な生き物で、変化にあれば平穏を望み、平穏にあれば変化を望むものなのかもしれない。また、仕事というプレッシャーの中で想像力を発揮するのと、日常の中で想像力を発揮するのとでは大きく違うように、一概に自分はこうだとも言えない面もあることはあるのだが……。にせよ、己がどちらの質かを知らずは幸の在処も知り得ない、とうのは確かだろう。

この先の展望

「酒の共感促進効果」で書いたあまり合わないと思っていた人から飲みの誘いがあったので行くことにした。いまだにあまり彼女に良い印象を持っていないのだが、何かと誘われるようになってしまったから不思議である。

私が彼女の誘いを受けるのには理由がある。彼女の周りには何故か綺麗どころが集まるからだ。綺麗どころと言っても、美人を見慣れた人からすれば平均的レベルである。ただ、美人にあまり縁がなかった私にすれば、悲しいかな、綺麗どころである。

その飲み会の帰り、この間書いた「知人の仕事観」の知人の友人とあれこれ話した。話のネタはその知人のことである。彼女は知人の言に衝撃を受けたようだった。その後、あれやこれや話すうちに、私もついつい自分のこの先の展望について話してしまった。ただ、私の場合は3つほどある選択肢の中でどれを選ぶべきか、いまだに思案に暮れている身ではあるが(選べるかどうかもわからないのに)。

キャリアプログラム

例の職業紹介団体がやっていることを、事業として成り立たせることはできないかと考えた。イギリスではそういうキャリアプログラムは当たり前になっているという。それが営利目的の団体によってなされているかは定かではないが、これはもしかしたら商売になる可能性があるのではないかと少し思えた。

総合学習の時間が設けられたものの、先生達は何かを準備する暇がないという。ならば、そこで必要となるのは外部の人間ではないか。多少金がかかったとて、その学校を出た若者がキャリアプログラムの影響を受け、名を広めることにでもなれば、それは良い学校としての大きなアピールポイントとなり、少子化が進む中での勝ち組的学校になれるのではなかろうか、と訴えかけるのである。

無論、それには地道な下積み的時間が必要だ。少なくとも、立派な生徒が巣立つまで。また、事業とするためにはより多くの職種の講師を得なければいけないし、教え方だって素人のままでは済まされないだろう。教え方に関しては、教え方を学ぶ機会がやはり必要になるだろう。教え方を教える人を呼ぶための費用もかかるだろう。

そして、授業を行った講師に対する必要になる。ということは、結構な代金を学校側から頂かなくてはいけないくなる。この辺の価格設定が難しいところである。いやいや待て、授業を生徒だけのものとせずに、もっと広く開け放つことで客を増やし、そこから徴収するということも考えていいのではないか……などと一日考えていた。

 

ランダム・ピックアップ