ハードスケジュール

記入日:2005/09/18

先週の月曜から今週の金曜(正確には、日曜日から週が始まると考えると先々週からだが)にかけて、夏季集中の演習があった。平日の16:20~21:10までぶっ通しで心理学の実験説明を聞き、実験をし、レポートを書くというハードスケジュールだった。

やる前は「死ぬよ」だの「よく取ったね」だの散々脅されたが、実際に受けみると思いのほか充実した日々だったと思う。何せ黙って聞いているだけの講義とは違い、実際にアクションを起こすわけだから退屈しないで済む。実験レポートもコツさえ掴めば、論理的に真理を探究していく楽しみを覚えた。

ただ、如何せん虚弱体質な私は、5時間近くに及ぶ演習に体力が持たず、後半はもうすっかりバテ気味だった。無論、それは仕事をした後で出ていることもあるだろう(授業に間に合わせるために早退させてもらっているとはいえ)。だが、他にもそういう人がいるのだから言い訳にしかなるまい。まぁ、実験パートナーとなった35歳の金融関係の男性会社員のように有給休暇を使えばよかった気もしないではないが。

苛立ち

それにしても、あの演習漬けの日々の中で感じていた苛立ちは何だったのだろうか。わからなかったことへの苛立ちか? 年下に指導される屈辱か?(この年で大学にはいるとTAが年下だったりする) いや、おそらく仕事で言葉というものにたずさわってきた私が「日本語として?」という指摘を受けたことだろう(仕事でやろうとも、年齢に関係なく負ける場合はあるだろうが)。

たぶん、そこには「そう指摘するだけ、お前は知っているのか」という思いがあったからだろう。実験レポートにおける言葉遣いと私の常識に差があるのかは知らないが、カギ括弧(→ 「 」)の終わりを『。」』で終えるようにとあったのは腹立たしかった。そんな風にして終えている小説があるだろうか? カギ括弧文章の最後に『。』は要らない、それは当たり前のことではないのか。

まぁ、いい。どうせ二度と会わぬ人たちだろう。不当な評価をされたところで、もはやそんなものにたいして興味はない。学力の評価などもはやどうでもいいようなところがある。今欲しいのは社会的評価、いや社会的な地位と呼ぶべきものなのだから。

実験と言えば、被験者の状態が実験結果には大きく左右するのだが、何度かやっているうちに思ったのは空腹か否かということが軽んじられている気がするということだ。真面目に考えるのも馬鹿らしいが、この手の実験では完全に無視されている。これでいいのだろうか?

クーリッシュの感想

話は大きく変わり、最近ハマッているものについて。まずは炭酸水。ジン(ビフィーター)をSAINT BENOIT、ペリエといったスーパーで普通に売っているもので割って飲むのが定番となっている。たまにはウイスキーをロックで飲むが、次の日のことを気にするときは先のものを飲む。

そのつまみは一時期まで100円ショップで売っている「いか天ぷら」というスナックだったが、その後は様々な種類のチーズを経て 今では漬け物にかわっている。漬け物を買う際には着色料で赤色○号とか書いていないものをなるべく選ぶようにしている。

昨日は仕事だったので、演習あけの初休日は今日だった。朝起きて、大学の施設にPCを持っていってネットに接続し、やりためていたことを片づけた後、新宿に買い物に行った。コピー制限のかかった番組を録画するためのDVD-RW、シャンプー入れ、コースター等を買い、ハルクの地下にある道頓堀くくるのたこ焼きを食べた。

懐かしかった。あの半生の焼き具合も、すぐ口に入れると熱くて噛めないタコも、久々にもらったスタンプカードも、何もかも懐かしかった。よくXX時代に三越の地下で食べたものだと。

ただ、あのころは自転車でXXXに買い物に行き、最後にたこ焼きを買って帰って家で食べていた。その移動時間がちょうどいい具合に冷ましてくれるのだ。今はただ、熱いタコをほおばるだけだが。

何となく、タコを食べながらXXの町並みを思い出した。今、自分が住んでいる東京よりも、おしゃれな街だったような気がしてならない。綺麗な町並み、多すぎない人、澄み切った空と乾いた風、何より涼しい夏。ああ、帰りたい……。帰って、あの家でまたたこ焼きを食べたい。ほどよい暑さのたこ焼きを。

 

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