エロスの世界像

記入日:2006/7/26

この間まで、レポートの課題で古代ギリシア文学における愛について調べていた。この場合の愛は、エロスのことを指す。多くの書物では美の女神の子どもとされ、いわゆるキューピッド的なイメージのあるアイツと同じスペルのエロスである。そのエロスを調べるに当たって行き着いた本が『エロスの世界像(竹田青嗣)』である。

この本はどっちかというと、というかハッキリ言って哲学系の本である。たぶん。私は哲学に造詣が深い人間ではないし、愛着のようなものが無いどころか嫌悪感に似た気持ちさえあるので、その辺のことはどうでもいい。ただ、どうでもいい人間であっても、幾つかの気になる言葉があったので抜粋してみる。

世界体験の原理は、「認識」ではなく「価値評価である」。あるいは、人間は世界を「認識」するというより「価値評価」するのだ

「真理」なるものは、存在するものの正しい「認識」ということをまったく意味しない。「真理」とは、強力な、他を圧倒する、公認された、権力を持った、勝利した、「価値評価」にすぎない。

古来多くの賢人たちがあなたと同様「正義」を讃美し、その優れた点を論じたが、しかしひとりとして、「正義」が「それ自体としてそれ自身の力で」どんな善きことを人にもたらすかをくわしく語ったものはなかった。「正義」が、「神にも他人にも気づかれない」ままで人間にとって最大の善きことをもたらし、「不正」がその反対であることを「証明」すること、「もしもあなた方がみんな初めからそのような仕方で語」り、われわれを「そのように納得させてくれていたとしたら」、われわれは、「各人が、『不正』をおこなって最大の悪とともに住むことになってはと恐れて、自分で自分の最も善き警戒者となっていたことであろうに」、と

改めて読み直した

まぁ、少し心動かされるところがある一文ではある。そういうこともあって、レポートに必要な部分だけを読んで使った後、すぐには返さずに取っておいて改めて読み直したのが今日である。だが、読み直した部分で気にかかったものはなかった。あのとき返していてもよかったかな……。

それと、プラトンの饗宴絡みの話で、当時は少年愛が当たり前で~といった下りがあるが、確か授業では「一般的ではなかった」という断りを見た記憶がある。西洋古典文学オタク故に当時のことなら何でものうちの教授と思想家のセンセイ、果たして……?

 

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