迷宮物語

記入日:2007/1/29

子どもの頃、奇妙なアニメを見た記憶が残っている。それは薄汚れた工場のような場所、子供心には薄汚れた機械の国という印象が強い。そんな場所に入った人間に、ロボットがナットの入った食事を持ってくるシーンが印象的な作品だ。実はこの作品、迷宮物語というオムニバス作品の中にある「工事中止命令」というものだった。

というのも、昨日の夜に衛星放送でやっていたのを見て(録画したのを見て)、「ああ、あの作品はそういう名前だったのか」と、何十年かぶりに見て気が付いたのだ。じっくり見てみると、「こんな話だったのか?」と思ってしまった。それだけ、あのシーンしか頭になかったのだ。

何故あの場面だけが鮮明に残っているのかを考えると、やはり視覚的に感情を伴いやすいシーンであり、食べ物の中に機械の部品が入っていることの不快さは、子どもにもわかったからではないだろうか。そして、食事のシーンは何度も繰り返され、そのたびに悪化していっている様子が、子どもにとってわかりやすかったからなのかもしれない。

子どもの視点

子どもの視点を考える時、ドラえもんの映画を見に行った子どもがどこで笑うかの話を思い出す。ドラえもんの映画で、子供達がもっとも笑ったのは、狸に間違えられたドラえもんが「僕は狸じゃない」という場面だったという。大人だったら、そんな場面で笑いはしないだろう。だが、子どもにとっては最高に楽しい場面なのだ。

それはたぶん、「ドラえもん」=「狸に間違われる」という図式がTVシリーズの視聴時にできあがっていて、自分が知っているネタのやりとりを確認することの喜び、そしてそれを確認するお約束への喜びが笑わせているのだという気がする。

平たく言えば、水戸黄門が印籠を出した瞬間に、周りの者が頭を下げるのを知っていて、「今出すぞ、今出すぞ」という気持ちで身構え、「ほぉ~ら、出した」となった時の喜び、物語の中の登場人物達の動きを読むことで、さも自分が物語の支配者であるかのような錯覚を覚えることと似ている。

よく楽しみにしている連載が思い通りの結果にならないと怒り出す読者がいるのは、この逆のパターンだと思われる。つまり「狸に間違われるドラえもん」は、そのお約束に則ったものだといえる。

視聴者は知っている事実を登場人物が知らないために、「お前、騙されているぞ。ソイツは悪い奴だ」と思い、ドキドキしながら見守るのも似たような原理だ。兎にも角にも、子どもの笑いは単純でなくてはならないという話である。

発達心理学で不意の移動課題というものがある。1.マキシーは緑の箱にチョコレートをしまう。2.母親がチョコレートを緑の箱から青の箱へと移し替える。マキシーはどっちの箱を探すだろうか? という質問をした際に、ある年齢に達しない子どもの多くは、マキシーは青の箱を探すと答えるのがそれだ。マキシーは母親が緑の箱から青の箱に移し替えたことを知らない事実を無視し、自分が知っているからマキシーも同じようにしてしまうと思考してしまうのだ。

こういった自己中心性(他者も自分と同じように物を見ていると思っている)があるために、子どもに楽しめない物語性というものもあるのだろう。実際、そういう例として某映画を見せられた記憶がある。また、仮面ライダーの変身シーンを考案した演出家のノートには、子どもには伏線は意味を成さないと書かれていた。話が随分と変わってしまったが、子どもの視点は大人とは違うという話である。

 

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