一億総批評家社会

記入日:2003/08/26

「○○についてどう思いますか?」

街頭でその手のアンケートをする場合、政治がらみの質問だと大抵批判しか出ない。それは批判されるべきことが続いていることが大きいと思うが、批判の仕方を聞いていると問題の本質を捉えていない気がする。ラジオ討論番組を聞いていて特にそう思った。なんだか、飲み屋の会話みたいだと思うことがある。

雑誌等で得た受け売りのような政治的知識があること誇示し、なかなか考えているでしょ? 褒めて褒めてと言っているように思えることがある。逆に若者に説法したがる年配のような、現在の状況を無視した過去の常識や、たまたまその人の人生において「正しいやり方」だったものを他人に押し付けようとしている気がする。この手の人は、自分の論を批判されたり、そう思う根拠を求められたりすると、感情論で押しきろうとしたり、葉っぱを見て森を語るようなことを言い出す。ひとつ不誠実な態度を取ったら、その人の政策もダメだと判断する。まさに、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いである。「いい人」が「いい政治」を行うわけでもないのだが(無論、「悪い人」は「悪い政治」を行いやすいが。いい、悪い、など安っぽい言い方だが)。ついでに言えば、「あの人は優しい」からとトップに立ったとき、「誰に対して優しいのか」が問題になってくる。

先に飲み屋の会話と書いたのは、討論するはずなのに人の話を聞かない、主張だけしたい、とりあえず否定、詳しく知らないが口を出す態度を見てのことだ。うちの祖父も似たような感じなので、酒の席で討論っぽくなると状況を説明して自分の意見を述べようとする私に、「理屈を言うな。理屈じゃないんだ」とコカ・コーラのキャッチコピーのようなことを言う。話し合いは理屈だ、と言うことは私には出来ない。なぜなら、祖父が私との会話に求めているのは意見ではなく、単なる相槌だけなのだから(話を聞いてもらいたいだけとも言う)。だから、飲み屋の会話なのだ。ついでに、祖父あたりの世代にとって討論とは口喧嘩のような、あまり好ましくないやりとりと思っているのではないかと思うことがある。元々、日本人はディベート的なものを取り入れてからの歴史が浅いのかもしれないが。

雑誌等で得た受け売りのような政治的知識とも書いたが、実際のところは私の知識もそんなものだろう。よくよく考えて見れば、日常生活で得る情報は何らかのメディアを通したもので、その情報源と自分との間には第三者がいる。情報を発信する側のベクトルが少なからずかかっている。私たちは所詮、そのベクトルがかかった情報で何かを判断せざるを得ない。そして、その情報に大きなベクトルを与えているのは批評家や専門家だ。彼らの意見の是非はさておき、彼らが「いい」と言えば「いい」というのは考えることを放棄しているように思う。

そのため、一部の無責任な批評家(コメンテーター)などが、たいして調べもせずに発言したことを自分の意見としてしまっているのを見ることがある。わからなかったら喋るな、何でそんな奴に公共の電波で発言をさせると思うことがある。一人を見て全員を語り(最近の若者は等)、一方的な自己主張を繰り返したりしている彼らを、一体どれだけの人が支持しているのだろう。総理の支持率ではないが、コメンテーターの支持率的なもので淘汰されていってもいい気がする。どうもむやみやたらに増えている気がする。

たぶん、私の彼らに対する不信感は、彼らの発言が誰かを助けよう、何かをよくしようというものではなく、発言による自己満足または稼ぎのための発言だからだろう。偽善的な慰めを叫び続ける者のほうが、彼らよりは多くの人を癒している。それでも、毒舌が売りになったりするのは、何処か批判がスタンダードになってしまったが故、もしくは閉塞感漂う雰囲気をキレのある一言ですっきりさせてくれるような気がするからではないだろうか。責任という面から見れば、批判の方が気楽でいいし、メディアの中には批判してなんぼの精神があると思う。肯定など、おおよそ地味な記事にしかならないからだ。しかし、必要以上な批判は決して物事をいい方向に運びはしない。そこを踏み越えない対応が、過激な方向に流れがちな分野には必要だ。特にこんな一億総批評家のような状態では。

今日、アクセスでは「ひきこもりを病気と認めるべきか」の話し合いをしていた。病気と認めることで余計に負担をかける、病気と認識した方が治りが早いといった議論はいい。だが、「ひきこもりは甘えでしかない。無理にでも学校に行かせる」という発言はどうかと思う。それは、当時者(家族)ではないから言える言葉だろう。正直、ひきこもりというものを少しでも調べたのかと言いたい。この発想の人が精神分裂症になった子を持ったら、おそらく完治させることはできないだろう。

精神病に対する誤解はライシャワー事件に始まった。精神病院の乱立と患者は閉じ込めておけの政策、それを支持する報道が患者とその家族を不幸にした。誰もが起こりえる病気を異常者の病気のように捉えさせ、一例に過ぎない事件から全ての精神病患者を犯罪者予備軍と扱った。それが今、ひきこもりという状況を通して繰り返されてしまいそうな気がする。

物事は正論を言えば万事解決ではない。誰かの意見であれば言っても責任逃れができるわけでもない。だから、誰かではなく自分の意見を言うために、よりよく「知る」ことを求めなくてはいけない。

偏見

よく、こんなことを書くと「偏見」だと言う奴が前の会社にいた。彼の前では、気に入らないことは全て「偏見」になった。憶測を許さない人だったと言えば、少し綺麗な言い方になる。まぁ、それからデータ的な例を出して話すようになったところもあるが、そういった話し方は日常会話には相応しくない(まして趣味の話でなど)。いちいち、そんなことを求め続けられれば付き合いづらくて誰も寄りつかなくなる。そんな彼は性格的な問題で嫌がられた上に、仕事上の不誠実な態度(働かない)と何より使えない(仕事をさせると仕事が増える)から解雇されたらしいが。まぁ、今回の話とはちょっと離れた話だが、何となく思いだしてしまった。

 

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