規制すれば解決するのか

記入日:2003/09/22

昨日のアクセス(ラジオ討論番組)のテーマは『「青少年の健全育成のため、放送・出版・ネット・ゲームにおけるポルノ表現の自主規制を国が指導」自民党が準備を進めるこの法案に、あなたは賛成?反対?』であった。

聞いていて、ちょっと不快になった。それはいつものことなのだ。どうも私は、あの番組を聞いていると不快になってくる。それでも聞くのは、聞いたほうがためになるんじゃないか、違った価値観に触れられるのではと思っているからなのだが……。

たまに、電話をかけようかとさえ思うこともあるくらい、黙っているのが辛くなってくる。「論点がずれているぞ」、「その人が言っているのはそのことじゃない」、「最低限の予備知識くらい調べてからかけろ。たいして知らないくせに主観や直感だけで喋るな」などと憤っていることもある。

で、かけないのは、目立つのが嫌いだということと、うまい具合に話を誘導されて言いたいことを言えないまま、白黒はっきりした立場にさせられて、向こうが望んでいる発言をしなくてはいけないように強いられるのではと思っているから、かな(その前に繋がらないか)。度胸がないとも言う。

今日、わざわざ不快だと書いたのは、書かないと気が収まらないくらい、あの番組への感想が溜まったことと、昨日の内容にガックリ来ているからである。ガックリきたのは、なんのことはない。誰もどういうかたちで自主規制の指導を取るのかという問題に大きく触れなかったこと、性描写・暴力描写の指摘の際に学校での性教育がどんなものか触れられていないこと、自主規制の話ではなく若者のモラルの問題が中心になったなどの物足りなさからだ。

まず最初に、「表現の自主規制を国が指導」と、あくまでも「自主規制の指導」とあるので規制ではないが、過去に国が児童ポルノ法案改正で「18歳未満の青少年が被写体となった性的な画像」を取り締まる対象とするとした、ということに触れて欲しかった気もしないではない。

前述の規制には写真だけではなく絵も含まれているが、絵に関して18歳未満かどうかは調べる人の判断に委ねられている。つまるところ、見る人が18歳未満だと思えば、所有者を逮捕できるという拡大解釈が可能な危険な案だった。例えば、親が子供が風呂に入っている写真を撮ったとしても、これは猥褻だと主張されれば事実上逮捕できることになる。何か政府側に都合の悪い人間を取り締まるにはいい法になるかもしれない。政府側が「青少年の健全なる育成ため」という大義名分を持ち出して何かを行おうとするとき、その大義だけを見て賛成する人たちの願いを、自己権力の増幅につなげる場合があることを忘れてはいけない。

まぁ、あくまで今回は自主規制を指導なので、関係ないと言えば関係ないのだが、国がこの手のことに手を出した場合の例として挙げる必要はある。なぜなら、国が指導した時点で受け手には「指導」では済まない可能性があるからだ。家のドアをノックされて、国家権力に「ああしてください」と言われれば「はい」と言ってしまうのが人情ではないか。

誰がそうそう国のいうことを無視して規制を緩めたままにしておけるだろう? そして国の規制指導に柔軟性など期待できるというのか。通り一遍の規制で外れるべきものも引っかかるのではないか。

次に性教育の話だが、これはメディアからの受け売りなので、たいして大きな声では言えないが、どうも性教育を単なる性交教育にしてしまっている学校が多いということがある。つまるところの、どうしたら子供が生まれるかを教えるだけで、それはどういうことで、性的暴力はいけないことだとかを教えるわけではないのだという。国のやっている義務教育の世界ですら、性に対して妥当な対応が出来ていないのに、人のふんどしを締めにかかるのかという思いもある。

だからといって、番組に出てきたその手の情報のせいで自分は狂ったという高校生の肩を持つ気は毛頭ない。あれはもう率直に自分自身に非を認められずに、他に求めている者にしか映らない。そう、どこぞの民族主義国家のようなものだ。みんながみんな彼と同じものを見て暴走するわけではあるまいに。

しかし、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと彼の言ったこと全てを認めないわけではない。ある一定の年齢までの規制は必要だと言える。今、小学校高学年の描く絵が変わってきたという。自分、家、木などを描いてくださいと言われると、十数年前なら家や木の大きさは現実世界に合ったものだった。しかし今は自分が家よりも大きく、何かを踏みつけにして火を吹いている絵を描いた子が増えたという。これは小学校低学年までによく見られた絵に近いという。これは現実世界を理解する前に空想の世界にどっぷり浸りすぎたためだとある人が指摘していた(また人の意見だ。情けないな)。幼児期、いや小学校低学年くらいまでは、まず現実をしっかり見つめさせることが必要ではないのだろうか。現実と非現実の区別をつけること、それがよりよく非現実(ファンタジー)を楽しむことに繋がると思う。

ただ、規制と言ってもやりすぎては逆に怖いのだ。規制とは少し違うか、そういう環境作りの前にいい例がある。「異常性愛の精神医学(小田晋 著)」には、『茨城県下の鹿島臨海工業地帯開発に際しては、多くの風俗産業や暴力団が進出し、純農村地域であった同地区の共同体の解体が行われた。その結果、鹿島署管内の人口比犯罪率は、県下他地域の犯罪率よりもはっきりと差がつくほどの上昇率を示した。これに十年遅れて行われた筑波学園都市の開発では、研究機関・大学地域、居住区域、ショッピングセンターがあまりに画然と区分され、禁止事項が極めて多く、それが住民にストレスとして作用したことが示されている。それはうつ病、ストレス、自殺の事例について「筑波症候群」と呼称がなされたほどであるが、犯罪率の上昇は起きていない。しかし、同地域に風俗産業が進出してからは、自殺は減り、暴力団の抗争や性犯罪が増加して、犯罪率の上昇が見られるようになってくる』と何とも切ない話がある。

じゃ、どうすればいいと言うのか? 結局のところ、今のままではまずいと思ったら何かを試してみるしかない。例えば実験的な規制特区を作り、そこでゾーニングによる対策をする場所、そのもの自体を売らない規制をもうける場所を用意してどちらが効果的かを見るなどの。この場合、よく特区で問題になる特区とそうでないところの不公平感はあるだろうが、こういう挑戦的な場所がない限り大きな改革などあり得ないのではないだろうか。地方分権よりは中央集権ならばなおさら。そもそも不公平感は自分が損していると思えるからだが、特区は実験区域と思えば、それがいいのか悪いのかわからない実験を受けている人々見ることができて問題がないのでは。

もし、規制することになった場合、規制されて仕事が奪われる人が上げる失業率の問題も考えなくてはいけない。また、情報の氾濫に関してはメディアリテラシーというものを教えるべきだということもある。話にも出たが、ネットで規制など事実上不可能というのもある(だからといってしないのか云々の話はおいておいて<可能性が低いことに金をかけるなら他に使って欲しいし>)。最終的には、自分の子供のことは親がしっかり見ろよ、と誰もが言いたいんだろうが。

その大人も大人で知る努力をしなくてはいけない。暴力描写の激しいマンガが多いそうだというメディア側の意見だけを飲み込むだけでなく、自らの目で見ることが必要だ。そして、暴力の酷さを一番伝えるのが暴力描写だという矛盾も知るべきだ。反戦映画には暴力描写が多く存在する。その辺をどう見るのか? 暴力のあるなしだけでは、そういう意図が別にあるものまで規制することになる。それでは火事が起こるから火は使わないという理屈だ。

暴力的なマンガやゲームをやり玉に挙げているが、そもそもどうしてその影響が大きいという主張がされ始めたのか、その根拠となる情報ソースが乏しいのではいないか。私的見解で言えば、何年も前から暴力的というか俗にいう格闘ものはあった。バイオレンスをの代名詞と言ってもいいかも知れない北斗の拳がやっていた頃、今よりも若者は荒れていただろうか。いや、そういう具体性のない比較自体がおかしい。

暴力的になるという影響は多くの部分から受けるのではないか、それを一部のジャンル叩きに終始するのはおかしい。夜遅くまでライトを浴びているのが発育に影響がある(コンビニのライトの問題など)、食品添加物の及ぼす影響もある。探ればまだまだ出てくるこれらを無視していいのか、ということにならないだろうか。

番組内で電話をかけてきたおばさんのような人が、こういった規制に賛成というのはよく見る光景だ。しかし、規制の対象があの人たちの好きなものなら、また反応も違ってくる。殺人の方法を覚えるという問題を挙げるなら、毎週手の込んだ殺人が紹介される火曜サスペンスもやり玉にあがってもいいのではないか、と言い出したら反対にまわるのではないか。だから、どうも悪者捜しをしてそれを虐げて無事解決万々歳で、親としての責任は果たしたと思いたいような気もする。

事実上の第二のテーマだった若者のモラルについて書きたいことがある。それはウォルフレンという日本在住ジャーナリストが、「日本政府は若者の教育問題を倫理の問題とすりかえてしまっている。14、15歳で可能性を失わされている若者におかしくなるなというほうが無理」と言っていたことだ。ついでに、12月26日(火)のテーマ 『バトル・ロワイアル』バトル!過激な暴力描写を含む映画は法律で規制するべきだと思いますか? も似たような話なので、軽くその時のことを紹介しても良かったのでは。

前にも書いたが、私は討論の質を求めている。色々な意見が出るのは構わない。ただ、討論とはお互いの意見を交換する中で、よりよい方向を模索していくものではないのか。どうも自分の意見を鼻息を荒くして主張して終わっているだけの気がする。自分以外はバカと言わんばかりに(今回は顕著だった)。よりにもよって、こういうテーマの日に創作側にいる崔洋一がいないとは。

 

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