暴走族は産廃以下

記入日:2003/11/07

11月9日は最高裁判官の国民審査もある。辞めさせたい人に×印をつけて投票するものだ。ハッキリ言って誰が誰だがわからないというのが正直なところだが、メディアによっては誰がどういうことをしたか報じているものもある。

その中の一つ、朝日新聞の昨日の朝刊には幾つかの質問に対する裁判官の答えと、携わった主な裁判と判例が書いてある。注目すべきはなんと言っても例のテレビ朝日ダイオキシン報道で判決を下した裁判官だ。

あの最高裁の判決は朝日側としては嬉しくはないものだろう。朝刊の裁判官紹介文を見比べると、一番よくない裁判官に見えてこなくもない。もっとも、実際にそうなのかもしれないが、何か別の意図を感じてしまうのは私だけだろうか。あの判例自体、全面的に支持していいのかと問われるところもあるが、実際の放送を見ていないので何とも言えない。

裁判官と言えば、例の暴走族は産廃以下という裁判官の発言に対して、問題があるのではと疑問視する声とともに支持の声も多数寄せられたのを思い浮かべる。疑問視する声は「少年審判は更生の可能性を前提にしており、発言はこの前提を逸脱している。暴走族に属する少年にも個別の事情があり、それを考慮してほしかった」である。まぁ、人の人権を無視しておいて、今更自分の人権を主張するのも酷い話だというのは横に置いておくと一理ある。

人権は法によって保障されている、同時に法によってその命を奪う死刑判決もある。これは矛盾だが死刑判決がなくなれば、殺人者が被害者よりも辛い目に遭うことはなくなることになる。もし新潟の監禁事件が9年も自由を奪われたのに、その男が数年で出所してくるとなると、法的に正しくても腑に落ちないところが出るだろう。その配慮が判決には必要な気がする。一方でこの件では法治国原理を曲げる法解釈への危惧もある(世論の圧力で~と)。単純な監禁致傷ではなく、未必の故意を認定して殺人未遂罪を適用との声もある。窃盗罪で4年の量刑という判例が今後どう見られ、使われるのだろうと素人目には思えてしまう。

話を戻して暴走族の件だが、「裁判官は暴走族がいかに悪いかを説得する意味で発言したと思う」と言われると頷くところがある(もしかしたら、個人的嫌悪からのものかもしれないが)。さらに、「(産廃以下と)言われて当然のことをした息子を擁護するため、親が明かすのは筋違い」というのを聞くと深く頷いてしまう。

ホットロード

この議論に新たに加えられるような意見は私にない。ただ、昔見た少女漫画を思い出して少し読み返した。ホットロードというマンガで、クラスの女子が見ていたことがきっかけで見ることになった(家にあるのは何となく買ってしまったからだが)。

このマンガについては他の解説の上手なレビューサイトに任せることとして、私が思いだすのは「暴走族がそんなに偉いのかよ」という少年の台詞だ。他人の意見などさして興味のなさそうな主人公が後で反芻しているのが印象的だった。何でもない普通の子の一言が、ああいう子に届くのかと驚いたところがある。

話的には生への渇望がない少年少女達の刹那的な世界から脱却といったところ、と書くと平たくしすぎている気がする。静かで、無機的で、鋭利なナイフのような、危なっかしくも脆いキャラが繰り広げる物語に私には見える。私には何一つ、彼らに共感するところはないが(強いて挙げれば自殺するのは勇気じゃないという言葉くらい)、一部の少年誌ヤンキーマンガよりは生々しさを感じる。

同時に愛されていることを知り、自分の命を粗末に出来ないんだから~ということで物語は終わりに向かい、今までたくさん傷つけたからこれからは~となる。残酷な意見ではあるが、更生するまでの犠牲(行政的な予算)を思うと他に力を使ったほうが効率的な気もしないではない。まぁ、人の命なので効率では割り切れないのだが。

何故、暴走族に入るの? という問いにそこに行くと仲間に会えるからと答えた子がいたと何かで読んだ。仲間とは、微妙な言葉ではある。仲間意識は何より素晴らしいと手放しで褒めるのは簡単だが、その意識が強まりすぎて排他性を伴い、仲間に属さないものをすべて敵とみなす可能性を認識させるのは難しい。あの仲間意識とは民族主義の国の排他性に近く、同じように厄介なものに見える。

結局のところ、ほとんどが何らかの情報ソースからの判断にしか過ぎないが、別にこの件はそれでいいと思っている。家田荘子氏が渋谷少女へのインタビュー本を出した時、「彼女達の考えていることがわからないと言うけれど、わかろうとしていない」と言っていたが、私はその考え方に否定したいところがある(もっと深い配慮があるかもと思ったが、彼女の出している本や学校でコンドームを使った講義をして得意げになっている様子を見ると、深い思慮に縁のない人に思えるから書いているのだが)。

理解してもらって当たり前、親は理解する側で子供はそれを待っていればいい、親が理解できないのは親の責任というのは違う。子供にも理解してもらう努力が必要だからだ。社会に出た時、部下を理解しようとする上司など稀ではないだろうか。だからこそ、小さな頃からそういった理解される努力は必要だ。

この点では私も過去に反省するところ大ではある。まぁ、運悪く私のように働かない上に被害妄想の激しい上司とぶつかると理解も何もないかもしれないが。作品中であった「世の中の人は私たちが死んだら喜ぶ」的なことを悲壮感を持って言う子がいたが、自分たちがそう思われるだけのことをしているという自覚をなしにそうするのは、悲劇のヒロイン気取り愚かしい……。

なんだか、話が面白くない方向に転がってしまったので、このへんで止めます。

 

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