かわいそうの基準
今年ももう残すところ明日だけになってしまった。テレビ番組もすっかり年末年始仕様だが、相変わらず北朝鮮の番組を紹介する(?)番組をよく見る。某ニュース番組なんかはそれが売りなのか、北朝鮮のスーパーキッズとやらを再三にわたって放映した。正直、うんざりしているのだが続いているということは、それなりに数字がとれているのだろうか。よくよく考えてみると、あれで視聴率がとれるなら制作の手間がかからなくていいのかもしれない。
それはそうと、ロシアで働く北朝鮮の人へのインタビューで、今でも覚えている印象的なものがある。彼らに対して「かわいそう」という言葉を使ったスタッフに対する次のコメントがそれだ。 「あなた方は、ポケットにあめ玉がないからといってかわいそうと言うが、私には何の志も持たない人の方がかわいそうだ」
だいたいこんな感じの言葉だった。インタビューした人はぐうの音も出なかったが、そのVTRの感想を求められるキャスターのほうは違った視点で月並みなコメントを入れて終わった。
確かに志の有無はあめ玉の有無よりもかわいそうかもしれない。しかし、その志が権力者のマインドコントロールとも言うべき、偏った思想教育の上に成り立つものなら、これほど「かわいそう」なこともないだろう。
だがまぁ、日本人は安易に自分たちの基準で「かわいそう」を使ってしまいがちだ。それは気を付けなくてはいけないと思う。その「かわいそう」には何処か、相手側よりも立場的に上位に立っているという優越感が隠されているのだから。
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