嫌なら見るな

記入日:2004/03/14

友人宅で群馬の女児殺害報道を観た。テレビ画面に映し出されていたのは、事件現場と犯人の顔写真、それから被害者となってしまった幼い女の子の葬儀。本当にいたましい事件だと思う。

この事件そのものも問題だが、報道の仕方にも問題を感じる。一部メディアは犯人像を掘り下げるに当たって、随分と偏見に満ちた報道をしている感が否めない。部屋から幼女もの80冊という情報なら、事件との関連性も頷けるから不思議ではないが、犯人がアニメのカードを買っていたという情報を流す必要がどこにあるのだろうか。

駐車場の屋上から男児を突き落とした中学生のときも、「母親と手をつないで歩いていた」という情報が流れた。それも、母親と手をつないで歩いていた=マザコン(甘やかしの親)=親離れできない幼稚さ=犯罪との結びつき、と言いたげな取り上げ方だった。

今回の場合も似たようなものを感じる。犯罪との直接的な結びつきが薄いものを取り上げ、あたかもそれに関連する人達が犯罪者予備軍であるかのように報じるのは、公共の電波を使う側としていかがなものだろうか。

古くは精神病患者、遠くない昔ではひきこもりに関する報道がそれに当たる。そうなった原因は前者ならライシャワー事件、後者なら女児監禁事件が引き金になっていることが容易に想像できる。今回の「アニメのカード」はおそらく、幼女誘拐の宮崎容疑者から始まったものだろう。しかし、彼等は他の多くの患者やひきこもり、アニメファンの中のごく稀な一人に過ぎない。一人だけ捕まえて、ほかの全ての人を同じように見る愚かしさに憤りを覚える。

「常識はずれ」は「仲間はずれ」

似たようなことを前にも書いたので、今回は視点を変えて報道する側に関して考えてみる。それ自体、「イコール犯罪」ではないのに、さもそうであると言いたげな報道をする彼等の心理とは一体いかなるものか、それは想像の域を出る事はないが良心から来るものではないだろうことはわかる。

「二度とこんな事件が起きないために」という建前を掲げ、報道の自由の名のもと、本当に好き勝手にやっていると見えてしまう局もある。ニュース自体が面白半分で、視聴率が取れそうなニュースばかり持ってくる。伝え方もショーと化し、興味を引けば事実を多少歪めてもよしの精神が垣間見える。

そう考えたとき、その精神の中で先の取り上げた事例を犯罪者と結びつける理由は、全国ネットで行う村八分のススメに他ならない。人と違うとつつきたい、自分の価値観が絶対と決めてかかる、気にくわないなら叩けばいい……。日本伝統の陰険な「常識はずれ」は「仲間はずれ」精神である。

そして何より、自分より劣ると思われる人物を見て喜ぶ受け手がいる。興味のある情報に流れ、情報の質を見極められない受け手がいる。商業主義的な視聴率至上主義と面白い方に流れる受け手の不幸な一致がここにある。

やるなら責任を持て

嫌なら見なければいい、もはやテレビはその言葉では済まない。災害情報、政府の公式な発表、そういった重大なものがテレビを通して行われるからだ。災害時など、テレビ・ラジオからの情報が生死を左右することもあるだろう。いつ流れるかわからないテレビを通して行われる地震の警告のこともある。

この間、嫌なら見るなといった感じのタイトルをつけたテレビ業界の本があった。チラッと見ただけなので細部まではわからないが、内容はテレビ局によせられる珍クレーム集といったところだ。内容が私の指摘している問題と違うとはいえ、業界人がこういったタイトルの本を付けてしまうことが、ある意味において怖くもある。

こういった文句を言う奴は来るなといった素振りを見せられると、「嫌なら見るな」ではない、「やるなら責任を持て」と私などは思ってしまう。

 

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