人質事件後の批判

記入日:2004/04/16

いい加減、人質事件の話題から離れたいのだが、書くことが次々と出てくるので今日もこの事件。期待通り、というか予想通り、感謝や謝罪といった言葉以外のコメント発してくれた。イラクに残るとは想像以上であり、ある意味そう言うだろうなと納得できるものだ。

テレ朝ではこの発言に対する街の人の意見が紹介されていた。批判的な人々は自己責任という便利な言葉でかたづけている。支持派は自分を犠牲にしていくのだから凄い、イラクの人を誰かが救わなくてはいけない(誰かを救うどころか、逆に救われている。イラク人だって迷惑?)などだった。まぁ、誰にも迷惑をかけないで行くのならいいんだろうけどね、という話である(行くなら助けなくてもいいと一筆書けという意見も……)。

今回の救助活動でも結構な税金が使われたわけで、納めている者の中には「おまえらを救出するために納めた訳じゃない」って言う人もいるだろう。実際、政府関係者(?)の中にはかかった費用を当人に負担してもらうことを検討するべきだという人もいる。助けるのにかかった金で何人救えるだろうかなんていう意地汚い話もできる。無論、金に返られぬ何かを彼女は残しているのだろうが。

発言を受けた家族の方も困惑気味で、気の毒といえば気の毒である。しかし、しかしである。彼らが日本に戻って来ても生きづらいに違いない。いっそ、日本人を捨ててイラク人となって活動できたらと、彼の地にイラク人として骨を埋められたらと思うかもしれない。日本人でないのなら(税金が使われないのなら)、多くの人も今以上に暖かく見守ることができるだろうし。

それにしても、支持派としてコメントした茶髪小僧が気にくわない。彼の態度とコメントを聞いて思わず視野の狭い元同僚を思い出したからだ。全体や関連するものを見ようとせずに、その一部分だけ見て判断する、それも超主観的に。あの愚かしさを思い出す。ボランティア活動という部分だけを見れば立派だが、そこから生じる問題の数々を見れば……であるが、その生じる問題までたどり着かない。

ボランティア活動だけ見れば、と書いたが私には何か純粋なそれとは違うものも感じる。「イラクの子供たちに対して、何もできないという人に何かできるということを示したい」という彼女のコメントに、そこに何らかの「私はやってみせた」と言いたい気持ち、奉仕・慈悲以外の感情はかなったかと問いかけたくなるのだ。そこがずっと引っかかっている。考え過ぎかもしれないが。

日本では生きづらいと書いたが、これにはニュースになったことで生きづらいという意味だけではない。戦場を体験したものは、眠ろうとすると銃声の音を思い出して寝られないといったPTSD的な症状に陥るという。これは毎日新聞の記事で読んだのだが、その心労はかなりのものらしい。それなら現地にいてもと思うかもしれない。私が言いたいのは、純粋な気持ちでボランティア活動をする慈悲精神があるのなら、その症状と一緒に今もそういう状態のところに住む人々のことを思いだし、自分だけ平和な場所で暮らしていていいのだろうかと思うのではないか、という気持ちにさいなまれるのではないかということである。

今回の事件にはいろいろと難しい問題があり、考えさせるところが多分にある。日本の意見ばかりでは何なので、海外から来た三人に関するコメントとしてNEWS23で紹介されたパウエル氏の言葉を載せる。「(復興には)リスクを背負う者が必要だ。日本国民は彼らを誇りに思うべきだ」と彼は言っている。国内の支持派にはない説得力がある。

あるが、だからといって「そうだね」とは言い難い。考え方としての「理想」のようなものはわかるが「現実」としてついて行けないと言える。誇りに思うべきべきリスクを背負ったとして、リスクを背負えば何でもかんでも立派かと言ったらそうではない。彼の言う「誇りに思うべき人々」が増加した場合、同じような事件が繰り返され、誇りだと言ってられないほど国として苦しい立場に追い込まれる可能性がある。  金には換えがたい何かとはよく言われるが、それが金よりも価値があるとは限らない。それはそれで大事だが、金は金で大事なのだ。ついでに言うなら金は万人にとって価値があるが、金に換えがたい何かは、価値のある人とそうでない人がいる。

リスクを背負って~に関して、自衛隊のようにお上の命を受けて行く者との差、人様に迷惑をかけないことを暗黙のルールとするのが日本人的なコメントも見られた。お上云々以前に、自衛隊のように問題を起こさないためにあれこれ準備をしている組織と、個人として行く人とには個人的準備の限界という意味でも大きな差がある(NGOという組織かもしれないけど)。無論、退避勧告が出ている場所に行くことだけ考えても、政府にそれを認められている者とそうでない者という差もある。何も支援を求めているのはイラクだけではないので、わざわざ退避勧告場所を選ぶこともあるまいにという意見もある(逆に、そういう地域だからこそ行かねばならないという意見もある)。

パウエル発言はその両者を一緒くたにするものだった。そこが問題だと私は思うのだ。一方で、彼の考え方に世界の警察と称して各地に軍隊を出す国と、日米安保に守られる国に根付いた風土の違いを感じる。うまくは言えないが、常に英雄を必要とする国と皆平凡を目指す国の違いだろう。あのアメリカ的精神がベトナム戦争や、ソマリアの顛末を生んだような気がしないでもない。

何かにつけて他国の政府関係者の発言は有り難がって聞くことの多い私ではあるが(認めたくないが無意識的にその傾向がある)、今回の件を受けて相手国の状況に発言者を照らし合わせて考えを持つ気持ちを今一度改めた。それはもちろん、イラクの聖職者協会などの弁に対してもである。

今回の事件において、もし家族の対応が違ったら彼らへの批判も少なくなったのではないだろうかと思えることがある。過去に幾つかあったと思うが、危険な地域で活動していた日本人が現地のゲリラなどに殺された後、その親が「自分の子は危険を承知で行ったんだ。こういう目に遭う覚悟はできていた。信念を貫き通し、悔いはなかっただろう」というコメントを寄せたことがあった。

これは並大抵の覚悟ではないだろう。この覚悟を三人の家族が持っていたのなら状況は変わっていたに違いない。あの三人がそう覚悟させるだけの説得を家族にしていたのなら、彼らに対する評価も大きく異なったに違いない。いや、その覚悟とまではいかないまでも、自衛隊撤退発言さえなければこんなに批判は起こらなかった気がする。今まで通り、拘束された人々を心配し、解放後は「よかったね」と言えたと思う。身内のことで政策を変更しろという姿勢が日本人の反感を買ったのだ。他でもない、長いものには巻かれろという言葉のあるこの国で。

もしかしたら、パウエル氏は家族の対応を知らないからああ言えたかのではないかとさえ思える。逆に日本人は家族のコメントを知っているから、こういう自体になった気がする。家族がせっぱ詰まった状況にあったとしても、見ている我々は冷静であって、いくら犯行声明文に自衛隊の撤退を書いていたとしても、それを声高に叫ぶことに抵抗感があったのだ(そこにあるべきはずの犯人側への憎しみを感じないということもあるかもしれない。刺激してはならない相手とはいえ、犯罪者を犯罪者として見ずに、政府という詰め寄れる相手を犯罪者のごとく扱っているように映ったとしても不思議はない)。家族の覚悟と対応、それが三人への見方を変えるポイントだった気がする。特に高校を出たばかりの少年に至っては、その渡航費用は親が出したのでは? そんなところに行かせた親の常識は? という疑問も残る。

また、いつも思うことだがメディアの対応にも苦言を呈したい。ワイドショー的に騒ぎすぎである。事件当初は武装グループの自衛隊撤退要求を必要以上に取り上げ、政府に詰め寄るチャンスとばかりに騒ぎを無意味に大きくする。犯行声明文を何度も読み上げて、それを読まれることをひとつの目的としている彼らの希望を叶えている。発言も犯罪者である彼らよりになったりする。

世論が三人批判に傾き始めるとおもしろ半分に彼らへの批判を紹介し、嫌がらせはやめてくださいと一応小さな声で言いさえすればいいという感じで、後はその批判を助長するかのような構成を平然とやる。彼らは批判を受けているとはいえ犯罪者ではない。まるで犯罪者であるかのように扱い、今後の人生を駄目にするかのような圧力を加えている報道をするところもあった。

何より解せないのはコメンテーターに自分の言いたいことを言わせて、何かあったらそのコメンテーターの発言であって自分らの意見ではないと逃げるところである。そして、そのコメンテーターがいい加減だと言うことだ。

特にテレビに出るような心理学者など、心理学的にまだ解明されていない分野まで好き勝手に喋っている。心理学といえど、人の心が手に取るようにわかるわけではあるまいに。ついでに、人の心を土足で踏みにじるようなことを生業にする彼らを信用しすぎではというのはとある心理学者の弁である。

そういった無責任なコメンテーターの中で、辛口の批評家なるものがもてはやされることで、深く考えずに何でも毒づくことが許されること、人間としての魅力として視聴者に認識させていったのではないかという危惧がある。毒舌家は発言のインパクトで視聴者の目を引き、視聴率に反映する貴重な存在かもしれないが、その副作用とも言うべきものに対する配慮が足りないと言わざるを得ない(弱気立場に強く出ることを恥とも思わなくなるのではないか?)。

コメンテーターとは違うが、石原都知事の「北朝鮮に拉致された人たちとは違う」というコメントを聞いて、こんな当たり前のことを言わなくてはいけないほど、わかっていない人が多いのだろうかとも思えた。

それから、最近思うのだが、反戦活動をする組織の中には、純粋な反戦への想いとは違うものを持った連中が結構いる気がする。いわゆる某政治セクトの連中である。反戦への署名活動と称して個人情報を手に入れて悪用する。勧誘して同志を増やす彼らのことも、こういった状況においては注意のために報道されるべきではないかとも思える。そういう人がいることで、日本人が人質となった彼らを見るときに何らかのフィルターをかけている気がする。そう、彼らは「左」よりではないかといった期待(?)である。

三人の行動の是非について各所から意見があがっている。あのイラクでボランティア活動をしたいという人にとって、すべての人に支持される選択というものは今現在ないような気がする。私は今この問題を突きつけられた時代に生きる者として、若干批判的な感情(彼らと言うよりは彼らの家族に対してだ)をさらけ出したが、私の感情に対して判定する人間は今この世にいない。それは、この時代の正しさというものは後世の歴史家が判断する他ないからだ。歴史的な正しさは判断しきれない。だが、今ここに生きる者だからこそ言える時代の感情を、ひとつの歴史的判断材料とまではいかないが残しておく。

さて、ずっとこの話題ばかりだったので、書きたいことが溜まってしまったので一気に放出することにする。ここ最近ずっと目にしてきたあの蛇ののたくったような字、あのアラビア文字はローマ字と同じ起源を持つらしい。その起源とはフェニキア文字である。ちなみに世界中で使われているアラビア文字はアラビア半島でのみ使われていないらしい。

人質事件の陰に隠れて年金の問題が国会で進んでいたり、歯医者会のボスを筆頭に様々なところの重役にいろいろあった。特にその会長逮捕は大きなニュースなのだが、すっかり陰に隠れて追求不足になっている。世間が人質に注目している隙に報じ、大事にしないようにな~んて考えがあるのかなって思えてしまう。

暫定政府

人質の話はさておき、今も六月の暫定政府への懸念は増すばかりだ。元々、イラクは国の興りに問題があった。第一次世界大戦後の国の線引きがそもそも問題だらけだったのだが、イラク戦争で新たな問題も増えた感がある。

イラクに民主主義をと民主主義が万能のルールであり、それこそが近代国家の証であり、最低限の条件であるかのように某大統領は言っている。確かにそう思っても仕方がないところはあるが、私はすべての地域に民主主義が向いているとは思えない。

「清い一票」よりも「一票=金」に興味がある国民性の国などには向いていないのは言うまでもないし、国民が政治に興味を失った場合の民主主義ほど恐ろしいものはない。イラクのように宗教的な派閥や民族的な派閥で越えられない壁のごとく区分けされた地域においての多数決が原則の民主主義には難しさがつきまとう。

イラクで選挙を行った場合、多数派のスンニ派の代表が当選を果たし、少数派のシーア派やクルド人を弾圧するのではないかという問題がある。そこをうまく配慮した暫定憲法の制定が重要だ。私などが言うまでもなく、やっているのであろうけども。

第二の人質事件

第二の人質事件で拘束されていた邦人二人が解放された。最初に拘束された三人が大きく取り上げられた分、扱いが小さくなってしまった感のある二人だが、この扱いの低さにはメディアとしての作為的なものも感じられる(大げさだなぁ)。

自分たちと同じ立場のジャーナリストが捕まったことを大きく取り挙げれば、自分たちにも批判が及びかねない。捕まりそうなのに取材とは何事か、その批判を恐れて扱いを故意に小さくしている可能性は否定できない。まぁ、彼らも現地に残るジャーナリストに世話になっている訳だし。

 

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