メディアの怖さ

記入日:2004/04/20

・世論の動向

事件発生後、世論は家族に同情的ではあったが、犯人側の要求をのむことの危険性を知っていたため、身内を拘束されたことで冷静さを欠いていた家族の自衛隊撤退要求に違和感を覚えた。家族の一部が政府に激しく詰め寄る光景を見て、違和感から反感へと変わっていった(身内が助かれば後は野となれ山となれ的な対応に映った)。事件がどうこうよりも、身内のことで国の選択(民主主義の決定)を揺るがすのかという危険性と、身の程をわきまえろと言う感情がわき起こった。日本には身内のことは二の次に、という感覚があることも大きい。

家族に対する反感が三人への批判へと変わっていく。退避勧告の出ている地域に行った三人が悪いのではないかという論調になり、政府関係者が口にしたことを発端にして自己責任論が展開されていく。この時点で、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといった感じで、家族への憎しみが三人を巻き込んだ家族へと展開する。その証拠に一番バッシングがひどいのは、弟たちが激しく政府に詰め寄った高遠さんである(私が見る限り)。

以上のような経緯で起こったバッシングに、事件と直接関係のない動機によるバッシングが加わる。常日頃から社会的に低く見られている者、バッシング情報に踊らされた者、弱者を攻めることで快感を得る者、そういった類のバッシングが広がっていく。明らかにおかしいバッシングと、第二の人質となった安田氏の帰国と記者会見、国外の重要人物の発言などに影響を受けたのか、それとも他社との差別化を図りたいのか、メディアの中にこの状況のおかしさを指摘するものが出始める。

事件の政治利用

武装グループが声明文に自衛隊撤退を解放条件に盛り込んだことを受け、社民党・共産党・左よりの勢力といった組織が自衛隊撤退を叫び始める。人質事件は政府の責任とばかりの理論を展開。家族の撤退要求を自分たちの正当性をアピールするために利用。この政治利用により家族と撤退派勢力が同一視され始める現象も起こり、家族批判派にその手の勢力を嫌う者が加わる。元々自衛隊撤退派だった家族が、ここぞとばかりに言っているのではないか、自作自演ではないかという憶測まで乱れ飛ぶ(例のナイフ映像で演技指導が日本語でなされていた、イスラム教徒が女性を脅しているといった不自然な点から、犯人側に日本の反政府団体が絡んでいるのではないかという状況からくる推測)。

家族の対応を受けて世論が彼らを全面的に支持しなくなったことを受け、政府側は自己責任論を後押しすることによって、社民党などの自衛隊撤退論を封じる。無論、政府としては退避勧告を出している場所であり、これ以上人質になる人が増えては困るということもある。その結果、バッシングが加速する。

世論の動向を受けてか、調子づいた政府は三人と家族に対する救助費用の負担を求め出す。退避勧告の強制化も唱えられ、世論が味方してくれそうなうちに政府の義務を減らそうという意図が見え隠れする。海外(たかだか一国や二国で海外というのはどうかと思うが)からは、国民の生命を守ろうとするのは政府の義務であり、費用を負担させようとするのはおかしいと非難が起こる(発言者には退避勧告地域に出かけたといった点までは考慮されていない感がある)。

今後もし、世論が自己責任論を批判する側に回った場合、自衛隊撤退などのことに関するコメントを保留した政治家が、アンチ自己責任論を展開して浮上する。

ボランティアという言葉

NEWS23は筑紫哲也の意向なのか、人質事件では三人の支持を貫いている。正直、あの番組を観ていると支持派に寄っていく自分がいる。メディアの影響の大きさを改めて感じる。逆に私の流れやすさに危険性を感じる。この事件を見る「正しさ」に関しては前に述べたとおりだ(後世の歴史家が判断するという逃げた意見)。

今日の番組ではNGOの代表者が危険な地域に行った彼らを迷惑というのではなく、政府はNGO支援法的なものを作って、彼らが安全に活動できるような支援策を講じてほしいと言っていた。果たしてそれがNGO(非政府組織)と政府の関係か、安全になるだけの支援をする金があったら最初から政府がやれば~なんて野暮なことを思わずに聞けば、ああそれも一理あるなと思える。

日本在住の海外メディアの記者は、「勘違いにも保守派メディアや政府は人道支援感覚に優れた彼らを批判している」と書いていた(という和訳が出た。事件の政治的利用やその背景を書かなければ、記事として不十分だ)。「ああ、海外にはこう見えるんだぁ~」と思いながら見ていた(一人の意見とはいえ。どっちよりの新聞かもわからないけど)。先のNGOのオフィスにいたのも外人だったのを思い出し、やはり日本人はボランティアというものに何処か抵抗があるような気がした。

ボランティアという言葉が入ってきたとき、それに相当する日本語がないためにそのまま利用されたと聞いたことがある。探せばありそうな気がするが、ぴったり来るものがなかったのだろう。そういうところから考えても、ボランティアというもの自体、日本人にはわかりにくいものなのかもしれない。それと若干関係するかもしれないが、定職に就かない者への差別感のようなものが、ボランティアやNGOに対してあるような気がする。

以前読んだ本の中で、新潮だか文春だかではボランティア活動などで頑張っている団体を馬鹿にしているところがあるというのを見た気がする。そのことを思い出し、ちょっと考えてみた。何がその手の活動に対する蔑みになるのか、そのことを突き詰めようとすると先の書にあった「貶すことでそういった活動に参加できない自分の自尊心を満たすのだ」といった類の文章を思い出した。確かにそういったところもあるかもしれないが、その一言は本質まで突いていない気がする。貶しているのはその団体よりも、そういった活動が一般的な仕事に従事していることよりも高尚だという風潮に対してではないかと思えるのだ。

たとえば、サラリーマンなんかは間違っても崇高な仕事だなんて言われない。でも、彼らの仕事のひとつひとつがなければ現代社会は成り立たない。彼らは彼らで必要であるが、無償でないという理由で崇高とは言われない(他にも理由はあるだろうが)。しかし、社会そのものを形成し、保っているのは間違いなく彼らだ。崇高だといわれている無償で働く人々ではない。その崇高である人々にしたって、彼らの恩恵を受けずにはいられないし、彼らなしでは活動もままならない(人は一人では生きられないに似ているが、他国を思いやれるだけの経済基盤を保っているのは彼らだ)。そこのところを見落とした人々、特に心ない間違ったボランティア活動家などが、自分たちは立派で彼らは駄目だという目を向けたことが発端な気がするのだ。無償有償に関わらず、世の中に必要とされ、社会に貢献しているのであれば立派だと思えることが、まずこの国には必要が気がしてならない。

ジャーナリストの仕事

今日の23には拘束されたジャーナリストの安田氏が出ていた。その彼の拘束を日本の誰よりも早く知った人も出ていた。その人が危険な場所に誰よりも早く行って現地の人が望む行動をしているのがNGOであり、幾らか安定した後に入ってくるのが政府関係だと言っていた。また、何かの後援会の映像では危険地域での取材により、真実を伝えることがジャーナリストの仕事だと語る人が映っていた(発言内容はかなり端折っています)。

私的には後者の方が受け入れやすかった。彼も言っていた気がするが、イラクで起こっている真実を知らずに、それに関わる選択をし続けるとしたら、それは誤った判断をし続けることになる可能性が高い。下手をしたら、日本人は目隠しをした状態で他人の心臓を握っている可能性だってある。まぁ、海外のメディアから情報を仕入れれば、という意見もあるが、それはそれで大きな問題がある(他国のミサイル防衛システムで安心できるかといった類に似ている。でも、日本のメディアって国益を重視しているとは言い難いものも多々ある気がする)。

ただ、真実の伝え方への疑問もある。安田氏自身もゲームのような戦争という言葉を使っていたが、ならばこそ考えなければならないことがある。それは戦争がゲームのように見える我々に、フィクションではないと伝える工夫である。イラクの戦災者を写した写真を見せることで、戦争の悲惨さを伝えよう、起こっている事実を伝えようというのがおそらくスタンダードな方法だ。だが、残酷なもの、刺激の強いものを見慣れた我々への影響は、写真を撮る者が思っているほど大きくないのではないだろうか。これは沖縄戦の被災者がやっていたことだが、奪われた日常を伝えることでより悲惨さがわかるということもある。悲惨な画像を追いかけるばかりが能ではないのではなかろうか。また、彼らが撮りたがっている写真は、被写体にとって撮られたくない我が身の姿であり、晒したくないと思っている人も大勢いるのではないか、その点への配慮はあるのだろうかと心配している。

この番組だけ観ていれば、例の彼女の残りたい発言は政府が意図的に加工したもののような気にさえなってくる。彼女はボランティア活動を続けますとは言っているが、今すぐにイラクに戻ってきて続けると言っていないハズ。まぁ、「ボランティアを続ける=今すぐイラクで続ける」と解釈したのだろうけども。これで世論が「助けてもらってなんだ!?」になり、政府としては自衛隊撤退の動き(=社民党などの反対派勢力。参院選もあるしね)やイラクへの渡航を抑えられるということで「してやったり」だったのではないかなどと思えなくもない。少なくとも、退避勧告を出している地域と言うことで、ここでの事件に関しては政府として責任追及されるのは筋違いだという立場があるだろう。それとは別に、彼女の言動で下手をしたら世論が「人質なんか放っておけ」になれば、新たな人質となった彼らの命運も尽きていた可能性もなくもない。

彼らの人道支援による日本人のイメージアップは救助費分あったなんてことさえ思える、といった感じに怒濤のごとく肯定的な波が押し寄せてきた。人道支援とは何か、自己責任とは何か、改めて考える必要がありますね、なんていう進歩的なコメントのようで、実は単なる逃げ口上な言葉で締めくくりたくはない問題である。が、ポリシーなし男の私は面倒くささも手伝って使いたくなってきている。

使いたくなってきてはいるが、立場の違いについて書いておく。やはり、政府としては退避勧告をしている場所に行ってもいいですよなんてことは口が裂けても言えないだろう。それは、邦人の生命と安全を守るのが国家の義務であり、その義務を果たさねばならない機会を増やしたくない(いくら義務とはいえ、何度もあってはたまったものではないだろう)。世論が自己責任論に傾倒すれば後々まで政府としては楽だという思惑も少なからずあるだろう。

一方、NGOやフリージャーナリストとしては退避勧告が出るような地域だからこそ行く価値があり、行かねばならないのだという使命感があるのだろう。その両者の立場の違いを踏まえずに一緒くたにして考えると難しい問題になるのだという気がしないでもない。どっちが正しいとか間違っているとか言う以前に、その立場として取る態度は決まっているのだと改めて思う。

退避勧告の出ている地域に行くのは自己責任というのはもっともであり、困っている人を助けたいという気持ちは無条件に立派なものである。その二つの見解が一致しないどころか、相反するのが今回の件だと私は思う。支持派ですか、批判派ですかと区別すること自体、意見の求め方に対して「違うんじゃないですか?」という必要がある気がしないでもない。

読売と産経は三人に対して批判的であり、それに付随するテレビ局もそうだ(読売の着目点は政治的言動にある)。毎日はそれより穏やかであり、朝日は得意の事件をよく考えてみようである。イラク戦争開戦時を思わせるほど、メディアの対応は三者三様である(四社だが)。その各社の主張を受け手である私たちはもろに受けている。日本人の従順性なのか、はたまた疑わない馬鹿なのか、メディアの流す情報をそのまま飲み込みがちである(少なくとも私は)。今回の事件を通して、他人の主張やベクトルのかかった情報に踊らされる自分を見て、メディアリテラシーという言葉が何度となく頭の中に浮かび、学校教育においても必要だなと強く思った次第である。

こういった意見が二分されたというか、二つに分かれているように演出させられた状況下において、たびたび「バカの壁」を発見する。支持派ならば支持以外のコメントを言う相手はすべて批判派だと思い、批判派ならば批判的コメント以外を言う者は支持派だと思う。相手が何を言わんとしているのか、どういった分析をしているのかまで目がいかず、相手が同志か否かだけを見ている現象を目にする。これは二つの対立する意見が存在するときによくお目にかかる。そのたびに読解力がないなぁ~なんて思っていたのだが、実際のところこれはパニックのようなものではないかと思えてきた。パニックのようなものとは、ある種の特別な精神状態における選択とでも言うべき、分析上環境を考慮しなくてはいけない事態ではないかと思えるのだ(陸上競技の追い風記録のように)。

何が悪いのか

それはそうと、これだけ「何が悪いのか」という問いが続くと、行き着くところは大本の「悪」である。結局、行く突くところは「戦争なんかするからこういうことが起こった」である(イスラエルの暗殺に関してはアメリカの贔屓と、その贔屓による国連での拒否権発動がある)。そんなことはみんなわかりきっているはずであるが、改めてそこに行き着いたときに人はどのような行動に出るのだろうか、私には予想が付かない。

戦争という行為自体が間違っているのだが、さらに不幸なことに戦時下における「正しさ」は平時のそれと反転する場合がある。多くの「正しさ」が変わった中で、「正しい」判断をするのは容易ではない。後世、振り返ってあそこであの行動をしたあの人は立派だ、なんでもっと多くの人がそうできなかったのだろうと思うかもしれないが、それが戦時下に置かれた人の判断の限界だと私は思う。

アメリカさえ戦争を起こさなければ、立場的に援護しなくてはいけない日本が苦渋の選択をすることもなかったのに。その苦渋の選択によってテロリストのブラックリストに載ることもなかったのに。そんな嘆きが聞こえてきそうな昨今、改めてそのことを考えると先日のパウエル氏の発言の裏にあるものを透けてくる。リスクを背負う者が云々という言葉に思わず、自衛隊を撤退させられては困るというアメリカの立場が見えてくる。まぁ、彼は穏健派と目されてはいるが。

ましてスペイン軍が撤退しているのだ。撤退を叫んでいた候補者が当選したわけだから、これは民意以外の何ものではない。誰かさんがイラクに根付かせようとしている民主主義と同じ類のもののはずだが、その誰かさんは民主主義の決定を批判しているというのだから、結果だけ見ればおかなしな気もしないでもない。その誰かさんは見る限り、イラクに民主主義を根付かせることに真の関心があるように思えない。本来の目的は別のところにあったのではないかと思えてならない。

まぁ、それはおいておいて。スペインが撤退を決めたことに呼応するかのようにホンジュラスが撤退を決めたらしい。後に続く国も出てくるだろうが、その理由は様々である。それに対して「テロに屈するのか」という批判が巻き起こっている。その批判に対するいいわけとして、「役目を終えた」などがある。ここまでくると、建前を変えずに本音を叶えるいいわけを各国探し始めそうな気がする。「資金が尽きた」「復興は十分行った」、考えればまだまだ出てくる。

日本の国益

正直なところ、日本政府はどうなのだろう? イラク戦争開戦のときは「やれやれ、面倒なことを始めやがって」と思ったのではないだろうか。しかし、日米安保や北朝鮮のことがあるので、アメリカさんを支持をしますよと言うしかなかった。本当のところ、イラクなんてどうでもいいというのが正直な意見だった気がする。それは国民にも少し当てはまる気がする。イラクの親日派が見たら熱も冷めるかもしれないが、多くの日本人にとってイラクは眼中にない国ではなかっただろうかと思えるのだ。それがイラクの復興支援をどこか冷めた目で見る要因にもなっている気がする。

優先度として「イラクの困っている人たち <(小なり大) 生活はしていけるけど自分たちの身近な悩み」が圧倒的多数だろう。故にイラクよりも納めた税金の使われ方なのかもしれない。その問題にはつまり、納めた税金=何らかの形で私たちに還元されるべきもの≠三人の救助費用なわけである。理屈としてはもっともである。税金の項目に、海外活動中の邦人救助費というものが民主的に追加されたとしたら、この問題は大きく変わるかもしれない。日本を代表として海外の人のために頑張っているんだと、だから私たちは応援する意味で……いや、違うな。

ODAのごたごたがあったことも大きいとは思うが、自分とこの台所が苦しいのに何で海外を助けなきゃならんのだという国際援助への疑問が根底にあるのかもしれない(ODAの場合は日本企業の進出をしやすくしている、賠償金代わり(?)という面がある)。どうも突き詰めようとすればするほど、闇は深まっていくばかりだ。私の至らなさも大きいだろうし、問題の複雑さもあるのだろう。でも、何か決定的な一言を言って結論づけてやろうとか、深く考える必要性を感じない浅はかな意見で終わりたくはない。

メディアの影響

何はともあれ、今日のテーマはメディアの影響である。かなり逸脱してしまったが、メディアの取るべき態度こそ責任重大なわけであって、他人の自己責任を追求している場合じゃないものかもしれない。そして、それに晒される我々が情報を正しく読み取り、自分の考えによる決定を行う訓練がいるのだという話である。

今回、敢えて23よりに話を展開したが、私的には筑紫哲也の論理展開は好きではない(制作スタッフ側がコメントを用意しているとしたら彼らだが)。背景の異なる問題を一緒くたにして語るのがその理由だ(例としてあげれば、守秘義務が必要なものも他のものと同じように公表せよと言ったりする)。他の理由として自己責任論に異を唱える場合に感じる論点のずれのようなものがある。彼だけに限らず、自己責任論の展開や三人への責任追求に関して反論する人の中には、現実問題として捕まってしまった不注意さを抜きにして、「彼らへの問題提起=ボランティア精神の芽を摘むもの」と解釈して話す人がいる。

退避勧告の出ている場所に行くのはおよしなさいよという注意も、身内が人質に取られたからといっても家族の対応は度が過ぎたという意見も、下手をしたら家族への批判が三人への批判に結びついたという分析も、すべてが低俗な彼らへの嫌がらせとイコールで結ばれているかのように非難し、それはボランティア精神の芽を摘むものだと言ってしまう。そういった発言を繰り返すことで、相手側を人道支援に理解のない人に仕立て上げ、自分を理解ある人格者のように持ち上げている感がある。このバッシング批判のレトリックが解せないのだ。それにしても、まぁなんだ……。テレビや新聞がない方が幸せにと言えば語弊があるが、自分らしく生きられるような気がしないでもない。今の日本じゃ……。

今更ではあるが、相手がどんな人物か確かめずに片っ端からさらう彼らの稚拙さには呆れるところがある(情報が得にくいとしても、少ない情報でこういう行動に移る神経はどうかしている)。そうしなくては、いやそうすることが戦闘を有利に運ぶために必要なんだというよりも、これで人質の国は大騒ぎだなんていう喜びのようなものが聞こえてきそうだ。仮に必要悪であったとしても、そういった犯罪に手を染めることへの良心の呵責を感じさせてほしいものだ。

また、彼らへの非難の少なさに危惧を感じる。アメリカの悲惨な統治が彼らをそうさせているのだ! だけでは説得しきれないものがあるからだ。「イラクは大変なことになっている」と自分にはまったく責任がないように言う武装組織を見るにつけ、「おまえにも責任があるだろ」という気持ちがわき起こる。日本は恵まれていると羨む発展途上国の人を見ても、以前は自分に対する恥ずかしさのようなものばかり感じていたが、今は「日本は運良く恵まれているわけではなく、先人達が努力をした結果として恵まれているのだ」という思いがこみ上げてくる。

他者に対しても、自分に対しても、何かを羨む場合や批判する場合において、「おまえは違うのか?」と自らに問うことをいつからか私はするようになった。だからこそ、さすがに人質家族に電話で嫌がらせをする人や、根拠のないバッシングをする人を見ると、なんだかなぁ~と思えてくるのだ。それはそういったことを聞いたときからずっと変わりはない。メディアの主張に左右され、考え方が揺れ動く中にあってもである。その考えの揺れ動きに関して、君子は豹変するという言葉の本来の意味が今の私には慰めでもある。ただ、今現在の時点において、人質となった三人というよりは家族だが、あの対応には首をかしげるところがある。

 

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