小泉政権はもう三年

記入日:2004/04/26

小泉政権はもう三年になるそうで、NHKでは記念企画の「総理に聞く(確かこんな名前)」という番組を放送していた。番組内では先の人質事件に関する質問がされ、総理は要求をのむ危険性について説明していた。私が以前、事件当初に必要ではないかと思った類の説明だった(一度要求をのむと、日本人を人質に取るのは、日本政府に言うことを聞かせるのに有効な手段だということになり、海外での邦人誘拐が多発する)。

正直、遅すぎた発言ではある。これはあの事件当初にすべきものだった。今となってはそう大きく取り上げられるものではあるまい。この時期に言ったのでは、事件後に出てきた意見を見て、こう言った可能性も否定できない。言わないよりは、いいかもしれないが……。

他には経済回復に関して触れていた。経済が回復し始めたという質問者の言葉に対して、「政府の役割はやる気を出させること(何でも政府がやってくれると思ってはいけない)」「企業がようやくやる気になった」と総理。回復気味の経済は自分の手柄だという感じで少々得意げに語っていた。

何というか、政府を頼りにせずに自力でやることが大切というよりも、政府は頼りにならないから自分でやらないと駄目よ、といった風に聞こえて仕方ない。一応まぁ、自由競争社会と社会主義、西ドイツと東ドイツ、北朝鮮と韓国のどちらが発展したかと問い、政府干渉(管理)社会とその反対の例を出している。

この他にも郵政民営化、年金改革、憲法における自衛隊の存在など、多くの問題が話題にあがっていたが、私は背中が痛くて堪らなかったのでベッドに入ってしまった。ケチってマットレスなしで寝ているせいか、今日起きたときからずっと背中が痛かったのだ。

同調と異文化への配慮

この間書いた「同調」に関してだが、この実験ではアメリカ人の同調率よりも日本人の方が低かったそうだ。日本人の方が高そうな結果が出そうなものだが、実際そういう結果が出たのだから驚きだ。この結果の理由としては、日本人は見知らぬ誰かの意見には左右されにくいのではないかというものがあった(つまり、身近な人には左右されやすい)

ただ、私はこの実験には重大な欠点があるような気がする。参加者の「権威」というものが考慮されていない点がそれだ。催眠を行う場合など、権威というものが相手を信じ込ませ、術に陥らせるときに重要だという。この権威について触れられていないのだ。

たとえば、その参加者が凄い肩書きを持っているとか、よくテレビで観ていて好きな人だと結果はどうだろうか。いや、そこまでいかなくても、参加者(サクラ)が見知らぬ誰かであっても見た目から感じる威厳というものがあるだろう。鼻水を垂らした小僧が7人いるのと、知的で綺麗なお姉さんが7人いるのでは大きく違う(私はね……)。

まぁ、それはそうとしても、日本人の方が低かったのは意外だった。身近な人の意見には左右されやすいのではという意見に抵抗感はないが、ブランド志向が強い日本人の特徴から権威についても触れて欲しかった。身近な人というのも、ある程度の情報の信憑性を得ているわけで、その意味に置いて権威と同じ効果があるのではないだろうか。

もうひとつおもしろい効果がある。何かの作業をするときに、一人でやるのとそばに誰かいるのでは違ったりする。例え、近くにいる誰かとの直接的な接点がなくても、そこにいることによって「人の目」を感じる。人がいることで実力を発揮できない、もしくはその逆になるといったことが生じるわけだ。

それを心理学では社会的抑制(social inhibition)と社会的促進(social facilitation)という。このふたつに関する実験でも日本人の意外な側面を見られた。綱引きをする場合、三人で綱を引く場合の力量は個々の力量の和である。しかし、アメリカ人や多くの西洋人の場合、「綱を引く力量 < 個々の力量の和」となってしまうのだ。つまり、社会的抑制が働いていることになる。

それに対し日本人は全くの逆で、「綱を引く力量 > 個々の力量の和」となり、力を合わせると個々の力量の和を超えた力を発揮するのだ。思わず、三本の矢を思い出してしまうが、西洋人にとっては不思議でしょうがないらしい。

この差は慣習や文化風土の違いだとか、集団主義だからだとか言われているが、力を合わせたら個々の能力を超えた力が出せるというのは、人間として美しいことには変わりないと思う。元気玉を日本人で作るのと西洋人で作るのでは大違いというわけだ(いきなりドラゴンボールの例を出したが)。

その辺を踏まえて思うことがある。たとえば、日本にやってきた西洋人スターが投げキスをするのを見た日本人が、好きじゃない相手であっても「他の国の人(=お客さん)だし、喜んでやらないと」といったような気遣いをしがちではないだろうか(こういった行動は日本人以外にも見られるとは思うが、何かこう若干その行為に違ったものを感じるのだ)。同じ行為を日本人がやった場合は「何アイツ?」と反応する人でも、外人がやった場合には作り笑いを見せる。

この差には異文化への配慮的なものがある。無論、その行為自体が似合う人種というのがあるが、国の友好のために、嫌な国という印象をもたれたくないといった感覚が無意識に働いてはいないだろうか。その辺の配慮というか気遣いを、相手側は「白人への憧れ」「日本人には格好良く見えるんだ」「何でも喜ぶ馬鹿な人種」と思うこともある気がする。

愛想笑いというものの考え方がわからない人たちである。我々だって彼らの文化的風土や宗教観を正確に理解しているとは言い難いが、それ以上に彼らも我々を理解していないというか、理解できないのではないだろうかと最近思うようになった。そして、そのことを考えていると彼らの傲慢さというものも感じてしまうのだ(よくまぁ、日本にいていいことがなかった人が、外国に行ってデビューする<大学デビューみたいに>と「日本人は駄目」とか言う人がいるが、そういった類は別問題なので置いておく。それと、海外を知ったことでいい気になって、向こうではこうだったと必要以上に言いたがる人も)。

事件の政治利用

日本人は他国でその国の人と話すことになった場合、相手に合わせてその国の言葉で話そうとする。しかし、西洋人(特に自国の文化に誇りを持つ国)の場合は相手がどうあれ母国語で話しかける。他の国の言葉なんて話してやるもんかという態度に出る。それは大陸民族と島国民族の感覚的差なのかもしれないが、私らにとっては横柄な態度にしか映らない。

世界がもし百人の村だったらではないが、彼らが世界人口に占める割合は実のところ思ったほど多くはない。なのに、自分たちこそ世界のスタンダードだといった感覚で振る舞っていることに、今更ではあるがいささか抵抗感のようなものを覚えてしまったのだ。もちろん、西洋人と一括りにしてしまっているが、個人差が大きいことは言うまでもない。ただ、全体的に見てどうかという点からの話である。

世界的に見れば、虫を食べる人々というのは少なくないのに、自分たちが食べないからといってそれをやめさせようとする。バグイーターとバカにして回る。捕鯨に関する意見もそうだが、自分たちに理解できないものは排除しよう、どんなに批判しても構わないという感覚が日本人より強い気がしてならない。

また、どんな国の人も自分たちと同じような感覚を持たなくてはいけない、他が自分たちに合わせなくてはいけないという意識の強さを感じてしまう。同じ価値観を持つ必要があるのか、そもそもそれは不可能ではないのか、そういった疑問が湧き起こる。

仮想グローバルスタンダード

そういったことを考えてみると、今回の人質事件に関する海外からのコメントも見方が変わる。彼らはボランティアの人質が捕まった、政府や保守派メディアは自己責任論を展開して救助費用を人質に求めたという一点しか見ていない。深く掘り下げるほど興味がないのかもしれないが、背景的な事情というのを考慮に入れていない気がする。中でも、日本にはようやくボランティアを志す若者が育った的な紹介には引っかかるところがある。確かに日本のそういった活動は盛んではないし、遅れているとよく言われているが、この事件で書くような見出しだろうかと思えてならないのだ。

今や、海外からの意見が相次ぐと「世界社会に遅れてはならない、取り残されてはならない。日本はおかしい」といった動きになるが、その世界というのは西洋のことだろうかという気になる。先進諸国だけで世界をやっているわけではない。比較対象や考慮に入れられるほどの国力がないかもしれないが、あまりにも発展途上国をおざなりにし過ぎではないだろうか。いや、発展途上国だけではなく、白人系人種ではない先進諸国もだ。

私が言いたいのは、ことやものに応じては彼らと違う道を行く必要があるということである。食の欧米化がもたらしたものが肥満であり、それによる病気だったように何でもかんでもデメリットなしに合う保証はないのだ。中にはまったく受け付けないものもある。そこを忘れてはいけない。彼らは真のグローバルスタンダードではなく、仮想グローバルスタンダードなのだから。

だからといって、「日本人は外人と付き合ったって、気を遣うばかりで疲れるだけさ」とか、「異文化を排除せよ」とか、「危険はいつも海外から来る。戦地にもっとボランティアに行けだと? そんなに日本人を危険に駆り立てたいか!?」と叫べと言う話ではない。

耐えることの美徳

海外との差というのを書いてきたが、その差以上に深そうな気がするのが世代間の差だ。特に戦前と戦後の人間には深くい溝のようなものがある。どっちが立派かという話ではない。もう生き方や考え方自体に異文化と接するような違いを感じる場合があるということだ。ただ、まだ理解の範疇にあるがそういう風には思えないという程度のものが大半ではある。

北朝鮮の拉致問題に関して祖父が、被害者家族を助けようという風潮の中で「国と国の関係のことに口を出すものではない」と言っていた。そこには私が同じ言葉を言っても含めないニュアンスがあった。「国に個人が対峙するものではない」「お上に逆らうな」そんな意味がそこに含まれていた。私が同じ言葉を使ったとしても、含まれるのはせいぜい「国家間の問題には秘密裏に、水面下で進むことがあるから」とか、「日本側だけで解決する問題じゃないし、政府には他の大勢の人に関わる問題もあるから」くらいにしかならない。発言者自身の人生や受けた教育を配慮した言葉の裏にはこれほどの差があるのだ。

国民の生命と財産を守るのが国の義務である。その点から見れば、国民が危険に晒されても何もしてこなかった外務省というところに批判が相次ぐのは当然のことである。海外で日本人が不当な裁判にかけられた、海外で犯罪に巻き込まれた、でもその国といざこざを起こすのは嫌だなぁ~、面倒だなぁ~で動かない。その姿勢が批判を浴びている最中の祖父の発言だった。

このことを今回の人質事件で思い出してしまった。戦前の人を見ていて強く感じるのは、『耐えることの美徳』である。ストレスは体によくないと言われる中で育ってきた若い世代と、嫌なことには耐えて当然でどれだけ耐えたかが勲章な世代のものの見方には天と地ほどの差ができてしまった。私なんかは田舎で育ったものだから、その『耐えることの美徳』が同年代の人よりも強い気がする。そのために、耐え続けてよくないことにもなったが……。

そう言った意味からも、『耐えることの美徳』を感じられなかった人質家族への反発がおこった気がしないでもない(生理的な好き嫌いが、背景的な善悪を上回る傾向にあるのかもしれない)。また当然のことながら、『耐えることの美徳』を感じられない若い世代に関しては常日頃から不満があるだろう。しかし、不幸なことに『耐えることの美徳』を持たない方が生きやすい世の中に変わってしまったのだ。今、それを持つ者は社会において都合よく扱われ、ローリターン・ハイリスクな生活を背負っていたりする。なんだかんだ言って人間というのは、その時代時代に合った若者が誕生するものだと私は思う。

 

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