くだらない何か

記入日:2004/05/07

くだらないと思っているものを自らの意志で見ることがある。ぬぐい去れない過去に引きずられて、私は不本意なそれを目にする。そのとき、「くだらない何か」と心の中で呪文のように繰り返す。そうすることで奇妙な落ち着きが得られ、自分自身に対する言い訳の儀式が終わる。

「くだらない何か」、社会というもの自体が茶番に思えてしまう錯覚に陥ったとき、そのときはもうこの言葉では慰めきれないものがある。「くだらない何か」、それはいったい何なのか。私自身わからないが、心の中で繰り返すことで、不思議と馬鹿なことをしている自分を許せるのだ。馬鹿なことをしていますよ、という客観的な自分を用意することで、主観的に見ていない自分を意識させ、夢中になっていませんよと思いたいのだ。

さて、観念的で訳のわからない話をしたが、いつものように今日あったことについても書こう。まず、福田官房長官が辞任を表明したが、こうなると苦しいのは民主党の管氏だろう。相手方は潔く辞したのに、おまえは何なんだということで、次の選挙で大きなマイナスとなる可能性がある。まぁ、未納ではなく未加入であり、その経緯から他とごっちゃにはしていけないらしいが……。

それを見越してだとしたら彼は戦略家だ。例えそれが党なんかに促されていても。まぁ、綺麗に退いて好印象を少しでも残せば、そのうち復活という可能性もあるだろうし。それとも、もういい加減疲れていたのか、さらに大きな問題が明るみに出る前に引っ込んだのか、それは定かではない。

私たちは犯罪者か

日本人人質事件はすっかり年金未納問題の陰に追いやられた感があるが、こっちはこっちで新たな火種が生じている。二人の会見がその発端だった。雑誌も彼らの支持派と批判派、それから無視派に別れて各々の理論を展開している。そのひとつ、週刊現代を見て思ったことを書く。

そこには今井氏のコメントが載せられていた。バッシングへの怒り、政府の対応への怒り、それはまだわかるが解せない部分がある。「外務省は徹夜して救助にあたったかも知れないけど、何か有力な情報が得られたのか?」という点だ。

思わず、「一生懸命やっても結果が出なければ貶すのか?」と言いたくなった。悪名高い外務省だからという視点で言ったのかもしれないが、数多くの不祥事が起きているからといって、今回事件に当たった人がその手の人とは限らない。不確かな中でこういった発言をするのはいかがなものだろうか。

有り余る若さと、バッシングへの怒りがあるとはいえ、あまりに短気なもののいいような気がする。また、組織として有力な情報が得にくいから、退避勧告を出しているのだということを忘れてはいないだろうか。こんな発言を繰り返していては、支持派に流れ始めた人を失いかねない。

また、こういったことを言っては、「そもそも、おまえは何かできたのか?」という疑問が湧き起こるだろう。これはもうひとりのジャーナリストにも言える。口々に「信念」とは言っても、実績を伴わずがなり立てているならば、迷惑な理想論になりかねない。信念というのは万人に価値があるのではなく、それを持つ個人に価値があるのだから、「信念を持っていれば、信念さえあれば~」は自己中心的な言い方だと私は思う。

行き過ぎたバッシングは気の毒だと思うが、だからといってそれはないだろうというところが正直ある。純粋に、国際的な観点から見たNGO論、ジャーナリズム論からすれば海外の意見に賛同するところは少なからずある。しかし、それだけでは語り得ぬ何かが、納得できない何かが、ずっと「違和感」となって付きまとっているのも事実だ。それが何なのかはわからないが。

もし、私が彼ら側だったらどうするだろうか。たぶん、警察側には必要最小限の事後説明をし(どんな事件でも少なからず警察は誘導尋問的なことをしてくるだろう)、犯罪者扱いする人には、「私たちは犯罪者か?」と問うて後は黙るだろう。そして、ある程度世論が落ち着くのを待つ気がする。国民に是非を問い、後はそれを甘んじて受ける他ない気がするからだ。その結果が思わしくないのなら、海外に出るしかない。ここはそういう国なのだから。

人質となった三人と一括りに言われるが、個々それぞれを見つめ直した場合、大きな違いがそこに見つけられる。だが、意図的とも思える報道の仕方によって三人を一緒くたに捉えてしまいがちだ。たとえば、高遠さんがボランティア活動をしている映像がテレビで流れたとして、その後に人質となった三人が写されれば他の二人も似たような慈善活動をしていたかのような印象を持ちかねない。彼女と一緒と言うことで、慈悲深い三人に早変わりだ。映画のモンタージュ技法のようなものである。

私はこういった情報を与える側の先導とも言うべきものに、視聴者の意識をコントロールしたいという願望が見えるようで嫌だった。事件当初から、何よりもそこに強い抵抗を感じていた気がする。事件を自衛隊撤退運動に利用した連中も解せなかった。何かと人の醜い部分ばかりが目に付いた気がする出来事だった。

週刊現代は今井氏のインタビューを載せたが、どうもあそこは政府批判を第一に考えた感じなので、この事件で物議を醸している彼らの行動の是非論とは違う気がする。週刊文春、諸君といったあの手の雑誌はいつもながらの展開で批判している。おかしな話なのは、こういった雑誌の広告が、彼らの支持を唱える新聞に載っていることだ。

ひどいときは、「朝日の米軍誤爆報道は海外メディアの笑いもの」といった類の見出しを載せている広告を、他ならぬ朝日新聞が載せているときだろうか。アンチ巨人も巨人ファンという見方ではないが、同じ穴の狢とでもいうべき、奇妙な相互関係があるのだなと笑ってしまう。だから逆に、こういったところから流れる情報というものに、何処か胡散臭さを感じてしまうのだろう。

まぁ、対極にある両者の意見を聞くことが、もっとも物事の本質に迫れることのような気もしないではないので、新聞を読んだ後にはその新聞を批判している雑誌を読むのもいいだろう。ただ、世の多くの働く人たちにとって、何紙も読み比べて本質に迫るだけの時間も気力もないだろうし、それに見合うだけのメリットもない気がする。そこで、世の動きに対する意見もメディア任せにし、お気に入りのコメンテーターの意見を自分の意見として持ってしまうのかも知れない(それでいいとは言わないが)。そういう状態だからこそ、情報を流す側の責任は重大であり、その自覚が見られないから私はたびたびやり玉に挙げている。

最後に事件の見方の関して思ったことを書く。この間、新聞の投書欄で「今井さんを批判するのはおかしい」という中学生の意見があった。詳しい内容は割愛するが、支持派としての投稿の中では珠玉の作だと思った。「僕は間違っているかもしれない」と謙虚に言いながらも、「でも、僕はこう思うんだ」という若い子にしか出来ない素直なアピールだった。

彼の意見もわからなくはない。投稿した彼がそうだと強く言うわけではないが、この事件に関するコメントを見ていて思うのは見ている視点の違いだ。たとえるならこうだ。事件が円筒形の物体だとしたら、支持する側の人は物体を真上から見て丸いと言い、批判する側の人は真横から見て四角だと言っている。両者とも、違う角度から物体を見ようとしないので、物体はそれぞれにとってずっと丸いままであり、四角のままである。

両者とも間違いではないが、正解でもないという奇妙な現象である。ただ、ここに円筒形という新しい概念が加われば、これは丸いところと四角に見えるところがあるんだなとわかるだろう。その新しい概念こそが今求められている気がしないでもない。

 

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