辞めるということ

記入日:2004/05/10

米軍のイラク人捕虜虐待の新ニュースが飛び込んできた。犬を使っての脅かしというものである。これまで、女性兵士に辱めを受ける写真が何枚か公開されて非難を浴びていたところに、追い打ちをかけるような形となった。ラムズフェルド国防長官は自分の管理責任を認めながらも、辞任の意志はないと明言している。

さて、これらのイラク人虐待ニュース、もとい虐待写真を見て疑問に思うことがある。何故、わざわざ非難されるであろう写真を撮ったのか、虐待の物的証拠を残したのか、ということだ。虐待記念といったサディスティックなものなら、その心情を理解するのはまず無理だが……。

普通というか、たいてい人目に触れると非難されそうなことはこっそり行うのが人間である。それを証拠物件まで残すというのだから、その大胆さというか無神経さのあまり、裏があるのではないかとさえ思えてきてしまう。やらせではないか、と勘ぐってしまうのも無理はない(認めたくない側は別にしても)。

それはさておき、やったからには非難されるのは自明の理である。ただ、戦争中は殺し合っていて、捕虜になったら人権云々とは奇妙なものだと思う人もいるだろう。実際、やり合っている兵士にとっては捕虜の扱いに関する取り決めなど、きれい事に過ぎないのかもしれない。「俺の友人を殺したこいつを大事に扱えだと?」と。

しかし、捕虜になった瞬間から、敵は敵でなくなるのだ。そういう理屈でしか説明できないが、そういう取り決めなのだろう。丁重な捕虜への扱いがあるから、「戦って傷つくより降参した方がいいな」と思え、無駄に戦わずに投降する気になれるのだ。その例として、古代の例を挙げれば劉邦のそれがある(例は数多くあるが)。

また、投降者から得られる情報によって、戦局が大きく変わる場合もある。捕虜を受け入れる側にとっても、利点の多い取り決めだと言える。まぁ、末端で動いているもの達には戦局全体は見えないだろうから、今目の前にいるそいつに全神経が注がれるだろう。そして……である。

そう理屈ではわかっていても、日常的な感覚しか持ち合わせていない私などは、戦場でのこういった心理は理解しがたい。生きるか死ぬかの瀬戸際で作戦行動をし、自爆テロにおびえて誰をも疑い、過剰なストレスな生活を強いられた場合を考えるとぞっとする。そういった環境では日常感覚ではあり得ないことがあり得ることに変わったとしても不思議ではない。

そもそも戦争とは非現実的なのだと誰かが言っていた。常識が非常識になり、非常識が常識になる状態。その「不幸」の中に入れば、人の心はどうとでもなる脆弱な存在に変化するのかも知れない。今はただ、こんなことがいつまで続くのだろうかと思うばかりである(六月の政権委譲と思いたいところもあるが)。

誰に優しいのかが問題

一方、日本では民主党の管氏が辞任する意向を固めたらしい。あちこちのテレビに出て説明して回ったが、内外からの圧力には勝てなかったようだ。そのニュースの後に福田元官房長官が花束をもらって去る姿が放送されるのは皮肉な結果といえる。

辞める・辞めないが問題になるとき、私は少なからず辞めて責任を取るという考え方に疑問を持つことがある。辞めて取る責任とはいったい何なのか? 辞めたら、もう挽回する機会もないのでは? そういった疑問が頭をよぎるのだ。

無論、非難されるべきことをしでかした人が重役にあり続けるのを許すわけにはいかないという最大の理由は理解できる。でも、それを「責任を取る」という言葉で表現するのは不適切な気がしないでもない。その点、「私は信用を失い、現地位にあることは許されざることとなりました」という格好の悪い説明なら少しは納得がいく。

いずれにしても、辞めて一切の関わりを絶ってしまったら、それこそ、その問題における責任の取りようがない気がする。中継ぎピッチャーが打たれて逆転された、そのピッチャーにとっては次の登板で挽回することが、責任を取ることになる。その失敗を取り返すことこそ、責任を取るということだと思えるのだ。

だから、辞せずに残ってと言っているのではなく、言葉として合っていない気がしないでもないという話である。まぁ、「さようなら(左様ならば)」といった元の意味が薄れた言葉の例もあるが……。しかしまぁ、なんだ……、いい人(不正のない人)がいい政治を行うとも限らないというのが、政治の難しいところではある。

よく「あの人は優しい人」と評される方がいるが、政治家の場合は「誰にとって優しいか」が問題となる。官僚に優しい政治、所得の多い人に優しい政治、親族経営企業に優しい政治……、優しくなくては政治家にはなれないのだ。でないと、票が集まらないのだから。しかし、その優しさが我々に対するものである必要はなかったりする。

 

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