6分の1の夢旅人

記入日:2004/05/17

ちょっと悔しいことがあった。やろうと思えばやれたことが、「私は出来なかった」という結果になったからだ。後になって冷静に振り返り、「もうちょっとやっていれば、わかっていたのに」という気持ちになる。私は何度こんな思いを繰り返したのか、進歩のない自分に苛立ち覚える。

「わかっていたのに」、それが事実だからこそ、私は悔しさを感じているのだろう。この苛立ちは同じミスを繰り返さないために、強い負の感情となって私の胸に湧き起こっているに違いない。そう思うことで、気持ちを落ち着かせて前向きに進んでいける。終わったことは仕方ない、次で取り返すしかない。聞き慣れた言葉だが、何度となくこの言葉に慰められる。

こんな気持ちの切り替えをするときには、樋口了一の「6分の1の夢旅人」を聴く。いわずと知れた北海道のローカル番組「水曜どうでしょう」のテーマ曲である。曲が流れるとすぐに、北海道の大草原が目に浮かぶ。初めて北海道に行った日、電車の窓から見た朝靄の中の牛舎、そしてどこまでも続く緑の地平。清々しい空気が窓越しに入ってきそうなあの風景を思い起こし、無鉄砲だった頃の自分を思い出す。何故か、窓から顔を出して叫ぶ自分の姿が浮かび、不思議と気分がスッキリする。

気が付けば、「まぁ、いいか」という根拠のない理由がすべてを許してくれている。

根拠なき自信

ふと気が付くと、何でそんなことを言ったのだろうという言葉を発している。もっとおもしろい話をしたいのに……、もっとおもしろい話ができるのにできない。そんなことがよくある。もっと違うことを話したい、いつからかよくそう思うようになっていた。

その契機はおそらく前の会社で働いていたときにある。それは同僚の些細な一言だったのかも知れない。その言葉が胸に響く経緯がそこにあったとはいえ、いつかはその気持ちにたどり着いたであろう事実があるとはいえ、わずかな言葉で私は大きく変わってしまったような気がする。

私があのときしていた仕事は、俗に言う「スランプ」というものが存在するような仕事だった。繊細な神経で取り組まなければならない世界で受けた無神経な言葉は予想以上に大きかった。自分の脆弱さを感じるとともに、そうならざるを得ない特殊な世界だったことを思い起こす。

それまでは「根拠なき自信」が自分の中にあったために、恐れや挫折を知らないが故の無謀さ、ある意味においての勇気があった。今はそれがない。「自信」の在処を失った私は、極度の自信喪失に陥っているところがある。その一方で、相手に必要以上に低く見られることを恐れている自分がいる。

その自信を取り戻すために選んだ道さえも、私に「卑屈さ」を植え付ける部分があった。結局のところ、自分の努力や能力が認められたとしても、その認められる規準が低ければ自信には繋がらないのかもしれない。本当に困難な何かを乗り越えてこそ、自信というものが持てるのかも知れない(そう思いたい)。狭い分野での自信でもいい、自分にはこれがあると思うだけで、他の分野にも自信が波及していくだろう。だから、私は多大なる努力を払わなければならない。

……と、書いたものの、これを書いている今現在、体調が悪いので書いている内容ほどの意志の力はない。風邪かな? と思って診断してもらったら、アレルギー性の鼻炎用の薬を処方された。どんな薬であれ、この鼻水を何とかしてくれるのなら、それでいい。

 

ランダム・ピックアップ