社会的弱者とは

記入日:2004/05/16

知人の引っ越しを手伝ったお礼に酒を飲ませてもらった。引っ越しといってもたいした量ではないので、なんだか悪い気がした(いろいろもらったし)。そこで、ボランティアというものが持つ、もうひとつの側面について話を聞いた。

たとえば、旅行したいが耳が聞こえないので諦めている人がいたとする。そこに、手話が出来る人がいると旅が可能になるとする。聴覚障害者としてはしたかったことが出来るので嬉しい。しかも、その手話通訳者がボランティアで、金銭的な見返りを求めなかったとしたら願ったりかなったりである。ただ、逆に「見返り」を与えないことで悪い気(負い目を感じて)がする人がいるかもしれない(そういった点からすると、組織運営のためにわずかでも寄付金を募るNPOのようなやり方は、恩には恩をという日本人的感覚として自然だと思える)。

その一方、そういった聴覚障害者を対象にした旅行パックをくみ、それを売りにしている旅行会社があったらどうだろうか。タダで仕事をするボランティアがいた場合、みんなそっちに流れていってしまって、旅行会社にとっては踏んだり蹴ったりである。営業妨害とすら思うかも知れない。

だからといって、ボランティア活動そのものを否定するわけではない。「ボランティア=すべての人にとっていいもの」と思いがちだが、資本主義社会においては必ずしもそうとは限らないという話である。また、そこに競争原理が働かない故の変化の乏しさ(サービスのプロ化<洗練>)も気になるところではあるが、それはボランティアの場合は善意による工夫でカバーされるべきものだから触れないでおこう。

恵まれている

このことを聞いていて、以前少しの間付き合った女性のことを思い出した。彼女は先天性の病気か何かで手の指のひとつが極端に短い人だった。そのことで彼女は「障害者枠」になり、映画を観るときに割り引かれ、飛行機に乗っても割り引かれ、別枠で新聞社に入社できたという。

彼女は指が短い以外は私と何ら変わりない人だった。最初は彼女に対する同情を少なからず持っていたが、数々の優遇状況を見るにつけ、またそれを巧みに利用する彼女を見て、私よりも「恵まれている」気にさえなってきた。もちろん、彼女には彼女にしかわからない傷害の苦しみがあるのだろうとは思うが、頭ではわかっていても数々の優遇を前に不公平さすら覚えてしまった。傷害と認定する規準への疑問も感じた。

私がもし、あの会社に入れるのだったら、この親指が彼女のようになっても……。こんなことすら頭に浮かんだこともあった。何の落ち目もなく障害を持った体に生まれついた人にとって、その障害に対しての「売り」を持ったビジネスはどう映るのだろう。そんなことを考えながら私は家に向かう地下鉄に乗り込んだ。

先天的に障害を持ったのなら、その障害に対して払うものは傷害による不便さだけでいい。私も彼女と同じように生まれついたのなら、そんな風に思うのだろうかと想像してみたがわかりはしない。私は所詮、そのように生まれつきはしなかったからだ。唯一、傷害的なものとして色弱があるが、これは特に気になるものでもないので参考にならない。

『先天的に障害を持ったのなら、その障害に対して払うものは傷害による不便さだけでいい。私も彼女と同じように生まれついたのなら、そんな風に思うのだろうかと想像してみたがわかりはしない』『何の落ち目もなく障害を持った体に生まれついた人にとって、その障害に対しての「売り」を持ったビジネスはどう映るのだろう』と書いたが、低い視力と眼鏡やコンタクトの関係は、障害者相手の商売を甘受しているいい例であることに今更気づいた。ただ、根本的な疑問は消えない。

何が平等で何が不平等なのか、何を優遇して何を優遇しないのか。社会的弱者とは何か、優遇される根拠は何か、私は時々わからなくなる……。ただ、福祉国家スウェーデンの税金の高さとそのサービスを思い起こし、福祉的なことに対して日本は「善意」や「慈悲」、そして「無償」のイメージが強すぎて、そこにかかる「費用」を認知していないのではないかとさえ思えてきた。

させてもらっている

私には悪い癖がある。人が話しているときに割って入る癖だ。癖と言っていいのかわからないが、黙って聞いていればいいものを横から口を挟むことがしばしばある。やってしまった後、またやってしまったと後悔するが、またしばらくするとやってしまう。今日もそうだった。本当に困ったものである。

何でこうなのか、自分にもわからない。話したくてウズウズしているというよりは、今その話題に介入しないと自分の存在意義が失われるような、そんな感覚に苛まれて割って入っている気がする。自分はそれを知っているという知識のひけらかし、私もそれに対して同意見なんだという共感の気持ち、そのことについてはこんなことも知っているという蘊蓄自慢……。そういった厄介な衝動が私を突き動かしている。

そして、割って入った直後は、発言を終えた妙な満足感に浸るのである。ダジャレを言って周りが白けているのに、自分だけ笑っているように……。まぁ、そこまで周りを無視した介入はしなかったが、いや していないと思うのだが、今となっては割って入ってしまった相手のことだけが気がかりだ。

先日のボランティア云々で、ボランティアはする側にしてみれば「してあげている」ではなくて、「させてもらっている」のだということを書き忘れた。これは今日の毎日新聞を見て思い出したことだが、福祉関係の道を希望しながらも断念して警察官となった伯父も似たようなことを言っていた。ボランティアをすることで、精神的な「何か」を得るのだと……。このことを書き忘れていたので、中程の立場を取るつもりだったのに偏った文章になってしまった。

 

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