生きる値のなき世の中

記入日:2004/06/11

講義という多くの人が聞く状況を利用して、自分の社会的思想や時事問題に関する意見を述べる講師がいる。そこに集まった人はその人の主義主張を聞きに集まったわけではなく、講師の知っている特定の分野に関する専門知識に関する話を聞きに聴きに来たのだから、ここでこういった話をするのは筋違いだと言える。

ただ、時事問題でも講義内容に関係するものなら別だ。殺人事件の犯人などに対してよく行われる精神鑑定に関して心理学者が意見を言うときなどがそれである。残酷な犯罪者に情状酌量の余地なしという世論に押される形で刑が言い渡され、それがさも当然であるかのように思われるが、心の病というものを考えた場合には……となると難しい話である。

しかし、やはり「心の病だから」で納得できるだろうかという問題がある。そもそも、心理学なんてものは実に曖昧なものだと、精神鑑定云々に関して語った本人が言っている。米の心理学者の中には、精神病患者に対して臨床心理士が行っている治療行為に効果があるのかという統計を取り、「効果が認められない」という結果をはじき出して臨床心理士の批判を浴びている

そういった話はこの際いいとして、その人が口にした言葉で印象に残ったものを挙げる。それが「生きる値のない世の中」である。長崎は佐世保の同級生殺害事件の話、特にこういった犯罪が起こると加害児童の親の教育が悪かったとメディアは言い出すが、実際のところはそんなに悪いものではないだろう、どんなに熱心に教育をしてもダメなものはダメなんだという話の後に出たフレーズだった。

話の流れとしては、その言葉だけが浮いていた気もするが、その講師はそういった子を生み出す環境を作り出したのは我々大人であることを強く主張した。私自身、似たようなことを以前から書いてることもあって、この手の話が印象に残ったのかもしれない。

現実味を失った作業

佐世保の加害女児のことは連日新たなニュースが入ってきている。この事件のすぐ後に出た中学生の事件など、すっかり隅に追いやられてしまった感さえある。それだけ、少年犯罪も珍しくなくなり(報道されるという意味で。昔からあったかもしれないが<報道されないだけで>)、よりショッキングな事件だけ悪い意味でもてはやされているのだろう。

今週に入ってからは、加害女児がバスケ部を母親に辞めさせられたことで態度に変化が現れたことが言われ始めた。そのニュースと講師の言葉が頭の中で融合する……。女児にとって、バスケのない世界は「生きる値のない世界」となり、命というものにそれほど重みを感じなくなったのではないかと。

「生きる値のない世の中」だけでは、自殺には繋がっても殺人には繋がらない気もするが、私は自分の命を軽んずるものは他人の命も同様に軽んじてしまう(少なくとも重みが薄れる)、そんな風に捉えるような気がしている。だから、重みを感じない「命」をこの世から消すことは、現実味を失った作業だったのではないだろうか。

何が物を凶器に変えるのか

最後にちょこっと補足だが、盛んに暴力的映像が与える影響に関して言われているが、今のところそれを科学的に証明した事例はないはずである。ただ、私の記憶が正しければ、乳幼児期にテレビを見せることの悪影響は科学的にも立証されている。それは、現実と非現実の区別がつかない時期に作られた映像を見ることで、現実非現実の境界線が曖昧になるといった話だったような気がする。

今回の事件では、某サスペンスドラマを観てカッターナイフにしようと思い立ったと言われている。実に直接的な影響である。前々から、暴力的な漫画の廃止を訴える主婦層を見るにつけ、凶悪犯罪防止を目的に掲げるならまずはサスペンスドラマからと書いてきたが、皮肉な形でその主張の正しさが認められてしまった。

逆に、こういう事件があると真っ先に暴力描写に問題ありと非難の的になる漫画やゲーム、今回で言うと映画に対する扱いが慎重なのは、いつもなら見境なくそれらを凶弾する層が、それらを非難したら自分が好きなサスペンスドラマの立場もあやういと思っているからではないかと思える。

結局のところ、自分が好きなものは暴力的でも残し、そうでないものはいくら非難してもいい。「自分にとって都合のいい世界」を築きあげたい、稚拙な発想の帰結のひとつが今回の事件であるような気もする。

そんな発想を持つ病んだ世代(前に日記で似たような言葉が出たが、それとだぶっている)が創り上げた、いやもっと正確に言えばその世代の前の世代が創り上げた世界に寄生し、腐敗させた世界が「生きる値のない世界」になってしまっているのではないかという話である。

 

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