憂鬱の虫トスカ

記入日:2004/06/24

最近、どうも憂鬱である。理由は特にないのだが、何だか妙に気分が沈んで仕方ない。友人と話しているときは普通なのだが、ひとりで作業しているときなど、ついつい気が沈むようなことを自ら考えていたりする。この気の沈み、重苦しさは何なのだろうか。思うようにやれない何かに対するものなのだろうか。よくわからないが、この際だから気持ちをすっきりさせるために、溜まっている想いのようなものをはき出す。

まず、未熟な政治議論に対してため息をつくことがある。とある講義で「この理論に合った具体事例を挙げよ」といった課題が出され、近くの席同士でグループになって話し合って結果を報告するときがある。そのとき、その理論にほど遠い時事問題を挙げる人がいる。中でも「イラクのアブグレイブ刑務所もそうですか」「国連の活動もですよね(国連といってもユニセフから安全保障理事会まである)」「BSE問題がそれですよね」といった端的な用語を述べるだけにとどまっているものがある。

その問題のどこがどうなって、どうそれに繋がるかを言ってみろと言いたくなる。時事問題の用語を出して、「私はちゃんとニュースを見ています。偉いでしょ? えへへ」とでも言いたいのかと思ってしまう。それに対して講師も講師で、はっきりと否定しようとしない(気を遣って?)からかえって混乱を招いている(もともと説明下手の講師だが)。

そして、そのような端的な用語を出すだけの発言を「レベルの高い質問でついて行けない。所詮、みんなこんなもの」と言った人がいた。他ならぬ、「2004/06/16 嫌いと苦手の間に」で書いた嫌われている人である。その言葉の他にも、その人の言動で癪に障ったことが幾つかある。具体的に言うとプライバシーの問題に触れそうなので、詳しくは述べられない。

それらのことから考えるに、その人は相手の経歴・職業などで態度を変えるタイプであり、何事もキチキチとこなさないと気が済まない上に、冗談が通じないタイプだと言える。また、周りも自分と同じというか、自分がわからないのだから他の人なんてもっとわからないだろうという感覚で接してくるところがある。銀行員らしいと言えば語弊があるが、職業的な特性もあるような気がしないではない。

極端なまでに個人主義

そして、そういう彼女を嫌う人がいて、「彼女が嫌いだ」という情報を聞くと、私自身も「嫌い」に傾斜していく。もともといい印象がなかったのだから、坂道を下るように猛スピードで傾斜していくことになる。あまり話す機会もないが、耳に入ってくる情報と今までのやりとりの反芻から、どんどん嫌なイメージが形成されていき、想像上で大嫌いな人として認識される。その嫌な人と接触する機会が増えるかも知れないと思えばこそ、憂鬱の虫が私の心に巣くうのかも知れない。

また、その政治談義について思うことをそのまま述べたら、ある人には「○○の話なんて、私 全然わからなかった」と言われた。その後、そのまま別れたのだが、私はそう言ったことを後で訂正することにした。さっきのは自分の思い違いだろうと言ったのである。

無論、心からそう思っているわけではない。言ってしまった相手も、私が非難した相手と同じ程度ならば、その人の中での私の評価を下げかねないと思ったから、心にもない弁解をしたのである(現にその人にとってその手の話題は興味がなかったのか、発言自体忘れていたが)。夏目漱石ではないが、この世は生きにくいと思った出来事である(ある意味において、生きていくためには馬鹿な人に合わせる必要があるからだ。私も合わせられているときもあるだろうが)。

そもそも、女性でよく見るのだが、極端なまでに個人主義な人がいる。自己中心的という意味よりも、全体を通してものを見られないという意味で個人主義である。たとえば、何か問題に直面したときに、その問題の解決策を考えて実行するが、その解決法によって予想される今後の問題についての配慮が見られないといった具合にである。

政治の話になるとそれが顕著に見られる。ある組織の中で問題が起こり、ひとりの悲劇的な被害者が出たとする。すると、その被害者に無条件で際限のない同情を寄せ、その被害者が幸せになるなら組織がどうなろうとも構わないといった見解を示すのだ。その組織の今後の運営、社会への影響よりもまず、感情的に一番『共感』できるものを救うことに全神経を注ぎ込むのだ。一見、美しい精神のようにも見えるが、実際のところ自己満足的な偽善に過ぎない。『好きなもの』以外どうなろうとも構わないという理屈なのだから。

そう、兎角この手のタイプは『悲劇を気取りたがる』ヒロイズムを持っている。同情している優しい私、道徳的な見解を持つ立派な私、社会的に自立した いい女の私……。そういう「私」が好きなだけなのだ。そういったタイプが少なくないからこそ、バカから遠ざかるほどに恋愛がしにくいのかも知れない。バカでなければ付き合っていられないからだ。

宅間守と結婚した女、日本の男はダメねと外国人についていく日本の男から見てブスな女、くだらないナンパに引っかかる女……。そういった女性達に見るヒロイズムが滑稽で、幼稚で、疎ましい。

こういった話を書くと、以前付き合ったある女性を思い出す。恋愛至上主義でブランド好きの人だった。何よりも『恋愛』に比重を置く生き方はひどく愚かしく見えたものだ。彼女と付き合って、過去の恋愛を語りたがる人は避けようと思うようになった。また、「あいのり」という番組が好きだという人も……。

仕事観

こういう話の流れになったので、先に挙げた嫌われている人が、上記のような女性とイコールになるような印象を与えてしまいかねないが、今のところイコールではない(断言できるほど詳しく知らない)。彼女への反感はあくまで別の所にある。主に経歴や職業による差別的な見方に起因している。

そういった人を独自のヒエラルキーに当てはめて見るのは何も彼女に限ったことではない。むしろ、よく見る現象である。最近特に見るのは、社会経験が数年あるだけで未経験者を親が子を見るような感覚で見る人である。そりゃ、人は社会に出てなんぼ。働くことで社会的責任を負ってなんぼである(年をくっていてもバイトや学生には理解し得ぬ社会人精神が確かにあるにはある)。その点への理解は定職に就いてそこそこ働いた私にも当然ある。

しかし、たかだか社会に出て数年の人が言うとなれば話は別だ。社会人となって最初のうちは練習期間のようなものであって、会社への貢献などたかが知れている。下手をしたら自分のところに来る給料が、どういう経路で利益を得て来たものかもわかっていない場合がある。それなのに、さも社会人生活のすべてを知ったかのように、未経験者に対して横柄に振る舞うのはどうだろうか。

自分がミスをしたのに「あのクソ上司」と上の文句を言い、給料分すら働いていないのに「安月給」と悲嘆にくれる。まだまだ組織の末端にあって修行中の身でありながら、組織の全容を把握したかのような錯覚に陥り、偉そうにものを語り出す。それが私には解せない。

また、バイトと大差ないルーティンワークをこなしてきただけなのに、バイトや派遣社員を下等生物でも見るかのような目で見る人がいる。今現在、無職やバイトの身分だからといって、その人の過去の経歴までがないように、社会的責任というものを知らない人だというように扱ったりもする。いったい、何様のつもりなのだろうか? あなたの人生、たいした人生ですか? と問いたくなる。

仕事というのはどれも立派であり、大切なものだからどんな職業も尊ぶべきである。だが、こういった歪んだ見方をする人に対しては敢えて上記のようなことを言いたくなる。「上の悪口を言っているうちが華だよ」「人を動かすのが一番難しいよ」「言われたことをやってる方が楽なんだよ」……。

社会人としてのいろんなことは、むしろこれから少しずつ知っていくのである。私も含めてだが、たかだか数年ですべてを悟った気になってはいけない。すべてがわかってしまうとしたら、それは底の浅い業界や仕事だということ以外の何ものでもない。まぁ、そういったものでも、長くやることで見えてくるものもあるだろう(それは、人は努力したものには価値があると思いたいが故の錯覚かも知れないが……<特に自分の経歴では>)。

 

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