主権委譲

記入日:2004/06/28

イラクの主権委譲が当初予定されていた30日ではなく、今日行われた。まさに電撃的主権委譲となったが、その背景には各所で言われているようにテロへの警戒があるだろう。主権委譲を前にテロが増えていたことを考えれば、主権委譲に合わせた大規模なテロがあると考えるのは自然なことだろう。また、それを防ごうと何か講じることも。

そういった意味では、いい機転を利かせたと言えるのかも知れない。しかし、セレモニーとしては簡素なものになってしまい、イラクの記念すべき日というイメージには繋がらなかった。そのことで、主権委譲というものが国民にどれだけアピールできたのか、主権が自分たちにあるのだということをどれだけ認識できたのか、中世社会の王政のような政治体制がしかれていた国だけに疑問である。まぁ、主権どうこうよりも「安心して街を歩けるかどうか」が最重要なのは想像に難くないが。

以前、イラクに民主主義を、はやく選挙をといった風潮があったので、シーア派・スンニ派という派閥があるために、選挙をやるとなったら多数派の派閥が少数派を数の論理でねじ伏せ、少数派の弾圧に乗り出すのではないかという危惧を示したが、今となってはそれも杞憂に終わるのかもしれない。

皮肉なことに、彼らはアメリカという共通の敵を持つことで結託した部分があるというではないか。この話を書くと、内集団と外集団をめぐるシェリフらの泥棒洞窟実験を思い出す(詳しくは他サイトで)。こんな実験を持ち出すまでもなく、同じ敵を持つことが何よりの結束を持つことは、幾らか生きていれば何となくではあるが実感としてあると思う。これはまさに、「友愛」といった正の感情よりも「憎しみ」といった負の感情の方が、感情としては強いものだという典型的な例だ。

何故、そうなのだろうか。それは、「憎しみ」を抱く場合の方がより絶望に近いからだと思う。友愛やその他の正の感情は通常の状態で抱くことができるのに対し、負の感情は追いつめられたときや傷つけられたときに持つものだ。追いつめられ、傷ついた人間は通常の状態よりも「生」への渇望が薄れている。あまりの辛さに「死」さえ意識する場合がある。

だが、人間も生物である以上「子孫繁栄」が種の命題であり、そのために「生きる」という本能的命題が備わっている。すなわち、生きなくてはいけないのだ。その生きるための性質が憎しみを抱くという心理パターンだと思える。追いつめられ、傷ついて、生きる希望をなくした……。

ここで死を意識してバタバタ死んでいっては種の繁栄はあり得ない。そこで、傷ついた気持ちを怒りや憎しみに転化することで、人は「生きる目標(生きる力)」を得ることができる。そして、生きていくのだ。よくできた感情のメカニズムではないか(この負の感情により他者の命を脅かすこともあるが)。

やられたらやり返せ

話が横にずれすぎた。何はともあれ、主権委譲である。今となっては、早く落ち着いてくれることを祈るだけである。ただ、あの辺の人の国民性を考えるにそれは早くやってこない気がする。これはイスラエル問題に関わる例だが(イラクも似たようなもの?)、前に日本赤軍のメンバーがイスラエルの空港で乱射事件を起こしたことに関し、パレスチナ側の人間は「日本政府は岡本(乱射事件の犯人)にメダルをやってもいいくらいだ」と言っていた(彼がレバノンで拘束され、日本に身柄を引き渡すかどうか辺りの頃の読売新聞の記事より)。

日本人が同じように報復の連鎖の中に置かれたとしても、間違っても上記のような発言はしないだろう(真っ当な人間ならば)。現に、日本では犯罪者が自分を捕まえた犯人を逆恨みして復讐する話は彼の国ほど聞かない(向こうはこういったことがあまりにも多いので、それが理由で警察を辞める人もいる。もっとも、これは更正させる組織・制度の未熟さによるところも大きいとは思うが<少年犯罪に関しては日本も他国をどうこう言えないような気もするが(少年院など)>)。

この「やられたらやり返せ」「相手はどんなになっても構わない」的な発想が、私には幼い子ども達の縄張り意識や仲間意識、大人で言うならギャング社会の掟のような、ちっぽけで閉鎖的、そして幼稚なものに感じられて仕方がない。故に、希望的観測が持てないのだ(米軍の統治などの問題ももちろんあるが)。

 

ランダム・ピックアップ