ミスをしたら死刑(おしまい)

記入日:2004/06/29

多くの企業で株主総会が開かれたが、なんと言っても注目は三菱だろう。次々と発覚する欠陥隠しと多発する事故、非難を浴びる軍事産業からスタートしたが故の秘密主義……、もはや自動車企業としての命運は尽きたかのようにすら思える。実際、尽きて欲しいと思う人もいるだろう。

しかし、ひとつの大企業がなくなるということは大変なことである。その企業が持っていた能力・技術、その企業に関わっていた人材(雇用の問題)等々、失われるものはあまりにも大きい。できることなら、やはり再生して(生まれ変わって)欲しいと思う。雪印の二の舞になって欲しくはない(つぶれたらつぶれたで爽快感はあるかもしれないが、日本経済にとってはマイナス面が大きいのではないだろうか)。

この件もだが、最近は「ミスをしたら死刑(おしまい)」的な発想によくぶち当たる。三菱の件はことがことだけに、「つぶれてしまえ」と思うのも無理はない。だが、中には首をかしげる事例がある。たとえば、前の日記である「2003/11/12 不完全の可能性」の中で書いた児童の指紋を採取した担任の先生の話がある。

これはちょっと悪いことをしたら叩きつぶそうという典型的な例だ(この件に関する意見は前に書いたとおり)。この件に関しては、何でもかんでも流すメディアの問題を指摘したが、何でも流させようとする人間の問題もある。これも少し前の話になるが、暴走族か何かで捕まった少年の行為に対して、裁判官が「暴走族は産業廃棄物以下だ」といったことが問題となったことがあった。

これは言われた子の親が言いすぎだと言い出したものだが、このニュースは逆にこのことを言い出した親が叩かれた。「子どもの不出来さを棚に上げてなんだ!?(少しは反省しろ)」という感じだったのだろう(自分の子どもが人様に迷惑をかけるようなことをして、その罰せられる席で言われたことをどうこういうというのは、日本人的感覚からすれば恥知らずな行為と言える)。

何を流すか、何を流さないのか、ニュースの見極めが重要なのはもちろんだが、同様に冷静な目でニュースを見る必要があると、感情的な意見を正論と見なす風潮に苦言を呈したい。

言えないことの不幸

タイトルに書いておいて何だが、私は自分の人生に対して『不幸』という言葉を使いたくない。この言葉を使ってしまうと、それですべてが終わりだという気がしてならないからだ。何も得ることなく、ただひたすら不運な出来事だった……、そんな何も得るものがなかったという不毛な響きが嫌なのだ。

故に私は何か辛いことがあったとき、そのことを『不幸』ではなく『試練』だったと思うようにしている。その辛い体験により何らかのものを得、人生の糧としているのだという自覚を持つためだ。苦労したものには価値がある、自分の人生には価値があると思うのと似たようなものかもしれない。

だが、この場合はこの言葉の方がしっくりくるのかもしれない。それが、言えないことの『不幸』だ。私には自分の過去について容易には言えない秘密がある。あからさまに話せるようなものではない。話す相手によってはどういう態度を取られるかわからない過去(前科があるわけではない)、少なくとも私個人としては恥じている過去、それが私にはあるのだ。

どんなに辛いことであっても、それは話せるのならまだ「マシ」なところがあるのかもしれない。別に悲劇を気取りたいわけではないが、現実問題として「それ」は私にあるのだ。しかし、時には、いや特定の人に対しては、話してしまいたいときがある。ずっと言わないでいることが、まるで嘘を付き続けてその人を欺いているような、そんな気持ちになる人に対しては言うのだ。

無論、気軽に言えるものではない。一か八かの賭のような心境で口にし、判決を待つ罪人のように相手の反応を待つのだ。その結果として今までで最悪なものは、昔付き合っていた人の私を避ける行為であり、最良のものは親友などの今までと変わりない対応である。これだけ聞くと割りの悪い賭に聞こえるかも知れないが、ある程度親しくなった人に対して言わないことの引け目は相当なものなのだ。

何故、こんなことを書くかといえば、今日実際に「秘密」を話した人と対峙し、今までと変わりない対応を受けたからだ。正直、言ってしまった後の後悔はあった。態度が変わるのではないかという不安があり、いつもすぐ返信が来る携帯メールが遅れただけで、言いようのない圧迫感に押しつぶされそうになった。弱いなと自分自身思うところもあるが、そうさせるだけのものなのだろう。とにかく、今はいつもと変わりない対応に喜びを感じている。

 

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