生きる資格

記入日:2004/07/05

酔っているし、しばらくの間は日記に時間をかけたくないのでサラッと書く(だったら書くな?)。女子高生コンクリ事件の犯人の一人が監禁致傷で捕まった。彼は「刑を軽くする方法を熟知している」「一人殺すのも二人殺すのも同じ」と話していた模様。

こんなことがあると、少年犯罪だったとはいえ「死刑」にすればよかったという意見が出てくる。もちろん、その後には若いうちは更正する可能性があるし、法が基本的人権の尊重を保証しているというのに、その法で死刑を認めている矛盾を突く意見が出てくる。国際的にも日本の死刑制度は非難を浴びている。

それを踏まえて敢えて言おう。「死刑」にすべきだった。考えてみて欲しい、税金というのは基本的には全国民に対して平等に分配されるべきものである。世の中をよりよくするために使われるべきものである。

それを、何が悲しくて犯罪者のために使われなければならないのか。刑務所での生活費、関係施設の運営費に建築費、そういった諸々の犯罪者のための予算がもったいない。彼らはいなくなったほうが世のためではないか。更正したとして、どれだけ世に貢献できると言うのか。

彼ら一人を更正するために多くの金を使うのなら、違ったことに使った方が効率的に世の中のために役立つことができるのではないだろうか。いやいや、そこは「命」という何ものにも代え難い存在があるから、効率性だけで「命」を奪うのはどうだろうかと言う人が出てくるだろう。その考えもわかる。

それでも、敢えて私は述べたい。「生かす意味があるのか?」と。すでに人を殺した人間に、「命」を保証される資格などあってほしくない。長崎の幼児誘拐殺人の被害者家族が手記において、「二度と出て欲しくない」と加害者について語っていたが、あれがある意味「真実」ではなかろうか。

名誉ある孤立

少年犯罪、その再犯の可能性は高い(50%を超える)。更正施設やカリキュラムが不十分との見方もあるが、何より人は慣れる生き物だと言いたい。一度人を殺めた人間は、一般市民よりも越えてはならない一線を越えやすい。この再犯率を見てわかるように、現状のままでは罪もない人々が何度となく彼らにその人権を脅かされ、存在を蔑ろにされているのだ。

被害者の名前は白日の下に晒される一方で、少年犯罪者は実名を公表されることはない。人権を無視した人間の人権が尊重されるが、被害者の名前は際限なく使われ、時にはおもしろおかしく書きたてられる。被害者ばかりが、その傷を深くしていく一方である。その上、何ら事件の反省もしていない犯罪者が出てくる。その彼らが、何もなかったかのように生活を始める。それを聞いて、見て、想像して、何より大切だった肉親が死んだというのに、愛すべき人を殺した相手が平々凡々と生きている様を、平常心で見られる人がいったいどれだけいるのだろうか。

法が人権の尊重を謳うのであればこそ、人権を犯したものへの人権破棄という罰もあるべきだ。そして、法は所詮法に過ぎない、正義の同義語になりはしないことを認知すべきだ。生命権の保証は罪人に必要ない、そこで矛盾しようが実利を求めるべきなのだ(もともと、法も政治も世の中に合わせて作られてきた。憲法論議もそうだが、机上の論理だけで考えるのは正気の沙汰ではない。法も政治も本来生臭いものではないか)。

グローバルスタンダードという言葉がもてはやされる昨今ではあるが、所詮それも西欧を中心とした仮想グローバルに過ぎない。向こうの文化がどこまで我々に合い、どこまで我々にとって有益と言えるのだろうか。何かと国際協調が叫ばれ、その重要性もわからないではないが、時には自国の心情を貫いて「名誉ある孤立」という立場を取るべきではないだろうか(派遣問題にかかわる部分でも言えるが)。日本という国は「普通の国」になるよりも、「不思議な国」である方が、価値があるのではないだろうか。

 

ランダム・ピックアップ