地球滅亡時計が7分前

記入日:2004/08/05

この手の話題は避けよう避けようと思っているのだが、たまには書かないと嫌なものが溜まってくるので書く。NEWS23では『7分前』と題した特別企画が放送された。『7分前』とは地球滅亡時計の、地球滅亡までの『7分前』である。この地球滅亡時計は、核の技術に繋がるものを作ったアインシュタインらが考えたもので、核戦争が近づくほどに針が進むものだ。

言うまでもないと思うが、今までで一番近づいたのは冷戦時代である。ソ連崩壊後はだいぶ時間が戻ったらしいが、核拡散によって今現在『7分前』まで戻ってきてしまった。これは、この時計が生まれたときと同じ時刻である。この時計の針を進めた原因としてパキスタンのカーン博士が遠心分離器のデータを、核保有を目指す国に流したことと、そういった国々と博士を結びつけたスリランカの実業家の名が出ていた。

この後には、劣化ウラン弾による放射能被爆について放送された。イラクから戻ったアメリカ軍人の体内被曝がどんなものか(その兵士はサマワに駐屯していた)、気化しやすい上に一粒でも体内に入れば半永久的に放射能物質を出し続けるその物質の酷さが語られた。また、アメリカ陸軍が劣化ウラン弾の危険性を否定していることも(奇形児に関係なし⇒科学的根拠がいまだない;研究していない)。

この特集の最後は各国の路上インタビューで締めくくっている。「広島を知っているか」「核戦争は起きるか」「核は持つべきか」「日本は核を持っているだろうか」といった質問がなされている。まぁ、見応えはある特集だった気がする。

その23の前にクローズアップ現代を観た。こちらも、時期が時期だけに「ヒロシマ」である。例の千羽鶴放火事件の大学生を更正させるための指導と、その大学が始めた「平和学」の講義が紹介されていた。その講義は結果から言えば散々である。予想以上の参加者が集まったものの、講義中に携帯をいじられている、眠っている、お喋りをされている……。レポートを書かせれば、歴史年表を書いたものを出してくる、イラク戦争に関する識者の文章を載せてくる、「常識」としての平和論を書くだけにとどまっている……。

しかし、どうだ。あの講義内容の中身のなさは。戦争被害者となった詩人の詩を棒読みして、いったいどれだけ胸に響くというのか。他にも戦争被害者の資料や映像を見せたらしいが、大学教授というのは学術的資料から逃れられない生き物だろうかと、学生よりもむしろそっちに落胆した。一応、その後には被爆者が実際に来て被爆体験を語ったのだが、受け止めきれないなどという意見が寄せられたらしい。

この大学の後に、長い間被爆体験を語ることのなかった女性が、体の不調を押してまで中学生に体験を語る姿が映し出された。こちらの方は、生徒が自主的に鶴を折って平和記念公園に掲げに行ったようだ。こういう問題を考えるとき、人間としての「素直さ」の必要性を感じてしまう。いや、むしろ教育のあり方をだろうか(なんだか、これでは人間として「ダメ」になるために学校に行っているようではないか)。もちろん、大学と中学では学の質は大きく違う。だが、いつもいつも理屈として立派かどうかが問われると思うのは頭のおかしい、現実離れした発想だと言える。

ファッションとしての平和論

そう、このふたつのニュースを観ていて感じたのはその点だ。平和論に多くの学生が参加した。しかし、それは平和の尊さについて知りたい、学びたいという純粋な気持ちだとは私には思えない。学生がイラク戦争を語るのは時事ネタであり、酷い言い方をすれば流行だからだ。平和論もその延長線上にあるに過ぎないのではないか。今話題になっているから考える、就職の面接で出そうだから考える。もとい、考えるではなく「お勉強」をする。幾つかの書物を読み、新聞やテレビを観、何処の馬の骨とも知らない識者の言葉で理論武装し、その問題の本質が何かも分からないまま、他人の意見を自分の意見に置き換えて、「自分は知っているぞ」という主張をするためだけに言葉を紡ぐ。あまりにもむなしいものの知り方だ。

知人のサイトで日記を読んだときも似たようなことを思ったことがある。政府関係者の言葉尻からその人の全人格を判断した本を読み、政治問題について考えたように書いているのを見てゾッとしたことがあった。言葉尻だけでどんな政策を打ち出しているのかわかるのかと問いたくなった。別にその手の本を全面的に否定するわけではないが、判断材料にしてしまうのはどうだろうかという話である。こういった類のものは雑誌と同じで、軽く読んで「あぁ、おもしろいね」で済ませるべき代物だ。それを政治判断の基準にする感覚が理解できない。

これでは、まるで「あの人、髪型がダサイからダメ」で投票者を選ぶようなものではないか。真面目そうなイメージがあるから岡田さん、そういったイメージで選ぶという直感的な考え方を、こういったことでしてほしくないとよく思う。

と、ここまで書いてふと、サブカルよりと言えば語弊があるかもしれないが、興味の対象の中心が文化にある人が政治を考える場合、誰かの意見を参考にしようとすると、ジャーナリストや専門家よりも、作家といった文化人の言葉を参考にする傾向がある気がする。それも、より文化的なコメントを好む。

文化人の政治観なんて怪しい限りだと思うのだが、好きな作家の言うことは盲目的に信じているような感じを受ける。そもそも、彼らの中には、世の中を「斬っている」割には、きちんとニュースを見ているのかと問いたくなる人がいる。こういった文化から政治を見る人の中には、「新聞はダメ。マスコミなんてろくなもんじゃない」と言う人が結構いるが、そういった類の人の多くは新聞をよく読んでいなし、何処のマスコミがどうしたかなんて知らない。誰かが言ったその批判だけを飲み込み、それを知らない自分を正当化する防御策(言葉)としている気がする。

気が付けば、くだらない話をだらだらと書いたものだと、今更ながら呆れている次第である。

 

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