自分が不機嫌だと周りにも

記入日:2004/08/20

未熟な自我。

自分が不機嫌だと周りにその嫌な空気を始終発散し続ける人がいる。どんな嫌なことがあったのかは知らないが、日がな一日ふてくされて、誰かが話しかけても素っ気ないというか、鬱陶しそうな対応を繰り返す。まるで、「俺様はご機嫌斜めなんだ。その辺を察してくれよ」と言わんばかりだ。

人間誰しも機嫌の善し悪しはある。だが、機嫌が悪いからと言って、その不機嫌さに関係のない人物にまで不機嫌さをぶつけられては困る。それでは単なる八つ当たりだ。機嫌が悪いのは仕方ないとしても、その嫌な空気を周りに発散するのはいい大人のすることではない。

この手の人の困ったところは、不機嫌さをばらまいて周りの雰囲気を悪くするほかに、『周りは不機嫌な自分に気を遣って当然』といった態度でいることだ。周りからすれば「おまえの機嫌なんか知ったこっちゃねぇ~よ」なのに、である。まるで自分が世界の中心であるような、周囲が常に自分を気に掛けていると思っているような、またそうしてくれないと満たされない感情を彼らは持っているのである。

そう、赤ん坊と一緒だ。何かあったら泣くことで自らの存在や状況をアピールするように、彼らはふてくされて不機嫌さをばらまくことで、「どうしたの?」という気遣いや同情を求めているのだ。その深層心理には成熟しきれない未熟な自我があるのだろう。平たく言えば精神レベルで子どもなのだ。

今日、実際にそういう態度を目の当たりにしたからこんなことを書いているのだが、今思い出してみても嫌な気分になるところがある。この手の人は前の会社にもいたし、たいていのところにいるような気がするが、不思議なことに彼らの共通点として、不機嫌さをばらまく相手を特定していることがある。「俺は不機嫌だ」という空気を発散しているのは同等の立場の者か、それ以下の者に対してだけであり、目上の者にはいつものように接しているのだ。

つまり、感情をコントロールできないほど不機嫌というわけではないのだ。そこに、甘えというか、かまってほしい、相手にして欲しい、自分を見て欲しい、気に掛けて欲しい、そうでなければ嫌だ、自分の感情で周りをコントロールしたいという未熟な自我を感じるわけである。それが分かるから余計に周りは嫌な思いをする。

欠点を指摘し合うこと

「何か不満があるなら言えよ。自分が不機嫌だからって周りの雰囲気まで悪くされても迷惑だ」と言いたくもなる。現に言いたいところがあった。ただ、言うことはなかった。私が臆せずに物を言うタイプではないこともあるが、いちいち相手にするのも馬鹿らしいのと、他にちょっといいことがあったらどうでもよくなったところがある。

その人のことに関して、後でどういう対処を取るべきか相談を持ちかけられた。まず、彼の人は気持ちの浮き沈みが激しい人なのかと聞いてきたその人は、自分は上下関係なく思ったことは口にする方だと言っていた。ただ、まだ仕事になれない身なので言う立場にないとも。

それを受けて、私はそういう態度に出ることを期待していると言った。また、気が付けば前の会社で似たタイプの人に同じような指摘をしたが、そういった気性の問題は治らなかったことを告げていた。ついさっきまで、自分もその人と同じ感情にあったのに、である。

別に天の邪鬼なわけではない。人から話を持ちかけられたことによって、その問題を客観的に見ることが出来たのだと思う。そこには私の事なかれ主義と、その人の言いたいことを言える性格への羨ましさがあるのかもしれない。ただ、私が言ったこと自体は事実である。

何でもかんでも言った方がいいとは思わない。欠点を指摘し合ってお互いを高めるというのは、未熟な自我の持ち主には出来ないことである。なんだかんだ言って、結局人間というヤツは欠点を指摘されるとその人を嫌いになる。言いたいことを言い合う関係というのは、たいていの場合ギクシャクするだけで、よりよい関係作りには繋がらない。そこから関係改善を図るなら、より一層の労力がかかったりする。夫婦間など一生の関係でない限り、そんな労力をつぎ込んでまでよりよい関係を模索することもあるまい。

もしかしたら、これは日本人特有の気質であり、日本においても東西で差があるのかもしれない。今回、相談を持ちかけたのは関西方面の人である。県民性占いでは東北と相性の悪い関西である。その人は私の「相手にしない方がいい。勝手に怒っていれば、と思っていればいい」という割り切りを大人の意見としたが、指摘することで彼の人の気性が改善する可能性はゼロというわけではないので、「大人の意見」と言われても気恥ずかしい。私自身、自分の意見に「逃げ」を感じるところが少なからずあることもある。

大人は妥協と馴れ合い

だが、ある意味において「大人」とは妥協と馴れ合いの産物である。本音と建て前、正論と現実論を使い分け、より面倒がない方を選択する。そのため、不本意なストレスや理不尽な問題を抱え込むことがあるのかもしれない。しかし、どこかで妥協のラインを引かなくては社会においてはやっていけないのではないだろうか。

上下関係なく言いたいことを言える性格だということに自ら酔ってはいけない。それは、勇気や度胸のある性格に思えるかもしれないが、一歩間違えればただの無神経である。結局の所、やぶ蛇をつついて問題を大きくし、気遣いの得意な人間の仕事を増やすに過ぎないことが往々にしてある(その時点で、そういった方々は自分の仕事を終えたと悦に浸っていたり、面倒な問題になるとトンズラこいたりしている。いつも難儀を背負い込むのは苦労性の人間である)。

言いたいことを言えると自負するのは女性に多い。私はこれを褒めたくはない。前にちょっと頭が足りないタイプの年上女性とした会話で、彼女が「言いたいことは何でも言う、どうしてみんな言わないの?」と言った後に、「それで人間関係はギクシャクしなかった?」と聞いたら、「した」と言って「なるほど、そうだね」といった顔をした。

この手の女性が少なくないからだろうか、口も聞かないほど仲の悪い女性同士というのを目にする、職場では特に。こういうのを見ると、「なぁなぁ」な関係にも利点はあるのだなと思えてしまう。それがビジネスチャンスを逃すという欠点も含んでいるわけだが、「言いたいことは遠慮なく」に偏り過ぎないことの大切さを主張してこの問題は終わりたい。

肩が痛むとたびたび書いてきたが、寝起きが今のところ一番痛む。それもクーラーを付けたまま寝た後が酷い。となると、もう自業自得なような気もするが、冷えすぎで関節が痛いなど年寄りのようではないか。何だか、とても惨めな気持ちになる……。

 

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