賞のあり方

記入日:2004/10/20

ノーベル平和賞にマータイさんという黒人女性が選ばれた。様々な意味合いにおいて「画期的だ」という評価がされているが、最近常々「賞のあり方」というものについて考えさせられる。立派な人を表彰しよう、みんなにその功績を知ってもらおうというのが賞を与える目的だと思うのだが、どうもそれが変わりつつあるというか忘れられているような気さえする。

画期的だ、快挙だ、古い壁を破った云々……。前回のイラクで頑張っている女性弁護士の時もそうだった。その人個人の功績に拍手を送るために、というよりもあげる側の手柄というかイメージアップに繋がる受賞者を選んでいる、そんな気がしてならないのだ。

こう書くと、受賞者が貰うに値しない、それほどの功績を立てたわけではないと言っているように思えるかもしれないが、その功績自体を否定するのではない。ただ、背後に見え隠れする別の理由が気になって仕方がないのだ。また、私の考えすぎる悪い癖なのかと思わなくもないが、何だかなぁ~っというのが正直なところである。

それは近年の文学関係の賞のせいかもしれない。賞を取らせれば本が売れる人に取らせる、たとえ今までの受賞者ほどのレベルが無くても、というスタンスの。こういう話を聞いたことがある。

若くて美人な女流作家に性的な話を書かせて賞を与える、それがもっとも売れるパターンだと。実にくだらない話であるが、普段本を読まない人の「本を読もう」というきっかけはそういうことでしか生まれないのかもしれない。

これを書いていてふと、最近の若者の姿を描いたという評価に対して、「若者の生態など知りたくもない」と言って、全面的に某文学賞受賞者の作品など読むに値しないとした職場の上司の弁を思い出した。

ピカソ展

新宿でやっているピカソ展に行ってきた。ピカソの絵を生で観るのは高校生の頃以来だ。あのときは、何か絵に惹き付けられるようなものを感じた。それまで、「ピカソの絵は変だ」くらいにしか思っていなかった私が、である。写真で見たピカソの絵にはない何かが、生の絵には確かにあったのだと記憶している。

その惹き付けられる魅力を求めて行ったのだが、今回は何かこうグッと来るものはなかった。私の感性が鈍ったのか、今回の作品はピカソの中では駄作と呼ぶべきものなのかは知らないが、何も「来なかった」のだけは事実である。

一方で、会場にやってきていた女性たちは美人が多いような気がした。何処を観ているんだと思うかもしれないが、ついつい観てしまうような美人もいたのだから仕方がない。何故、こんなにも美人がいるのだろう? 芸術は美を求めるもの、故に自らにも美を追求しているからだろうかなどと思ったが、結論から言えば照明効果である。

美術館内は適度に暗くしており、たいていの人の肌は色白に見える。中で会って綺麗だと思っても、少し明るいところに行くと、肌のシミやそばかすが見えてくる。まぁ、それは抜きにしても顔の作り(輪郭など)はどうにもできないので、そういった意味では他所と比べると比較的美人が集まっていたと言っていいだろう。

その中でも驚いたのは、お尻の肉が少し見えている超ミニスカの女性である。下着こそ見えてはいないが(Tバックかも)、かなりきわどいところまでスカートの裾(?)は上がっていた。こんな人が美術に興味があるとは……である。

 

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