優しさの定義

記入日:2004/10/20

とある講義で「優しさ」とは何かについて問われた。相手の気持ちになって行動すること等々の正統派的意見が出る中、ディスカッションに加わった若造が「優しくするのも自分のため。すべては自己利益」的なことを言った。

それは先週の援助行動を考える際に、援助行動をするときの動機として「そうしないと気分が悪い(助けないと後味が悪い)」という意見を受けてのものだったが、100%善意でなければ「優しさ」ではないといった言い方、いや、100%など存在しないであろうことから、真の優しさなどなく、世で言う善意も自己利益といった言い方に虫唾が走った。

そのときは、いろいろ言うのも面倒だったので黙っていたが、どうもそいつは自分の意見ですべてを黙らせたい。議論を収束させる決定的結論に自分は達したと思いたがっているかのようだった。つまらない男だ。

「優しさ」について私的見解を言えば、100%の善意がそこにないとしても、相手にとって望むべき助けであるならば、それは「優しさ」と言ってもいいと思っている。でなければ、すべては自己利益と醜く罵られ、世は荒む一方ではないか。

社会にとって必要な倫理観、道徳心、その心から発動する行為を「優しさ」と呼び、奨励しなければ生きにくい世の中になるだろう。また、そういう行為の出来る人間こそ尊ぶべきだと正論過ぎてつまらないかもしれないが思うのである。

甘やかしと優しさ

ただ、世の中には「優しい」という言葉を間違って用いている人間が数多くいる。その大半が若い女性ではないだろうか。好きなタイプは聞かれて、「優しい人」と答える比率は女性の方が高い。

しかし、彼女らに「優しい人とは何か?」と聞くと、そこに出てくるのは彼女らにとって都合のいい男でしかない。わがままを許してくれる(これを包容力というバカもいるが)、何でも買ってくれる、決して怒らない……。男として聞いていてうんざりするコメントが書き連ねられる。

また、甘やかしを優しさと混同する輩もいる。時には厳しくすることの優しさ、今のままの甘ったれでは将来苦労するだろうから、やり直しがきく段階で厳しく当たる優しさを理解できない愚か者が増えすぎたと昨今感じている。

まぁいい、話を変えよう。西武が日本一になった……。これも結構どうでもいいから辞めよう。南野知恵子法務大臣への突っ込みが厳しくなった。これも個人的には割とどうでもいいのだが、突っ込まれる彼女を見て、民主党がいじめていると勘違いしそうな主婦層を思い浮かべずにはいられない。

見た感じにはそう見えるかもしれないが、法務大臣としての彼女の至らなさは事実である。これもまぁ、支持率で近づいてきた民主党を引き離すため、首相が突っ込みどころを用意した気がしないでもない。突っ込まれると同情を買いそうなのを大臣にし、突っ込む側を悪役に仕立て上げる。実にシンプルな筋書きである。

 

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