新潟中越地震

記入日:2004/10/27

東京で大きな揺れを感じたのは土曜日だった。六時頃から約一時間にわたって断続的に揺れが襲ってきた。妙な地震だな、というのが第一印象だった。テレビのニュースで新潟の震度6というのを目にしたが、番組内において現地の市役所職員と普通に話していたので、今現在知られているほどの被害は想像していなかった。

この地震の被害の大きさを初めて認識したのは友人宅でテレビを観たときだった。潰れた木造の家、脱線した新幹線、衝撃的な映像が目に入ってきた。同時に新潟出身の友人のことが脳裏をよぎった。その友人の一人と昨日会った。正直、どう声をかけていいか迷った。

「実家とは連絡が取れた?」と聞くと彼女は「学校に避難しているようです」と答えてくれたが、それに対して「無事でよかったですね」とは言えなかった。命は助かった、だが今現在深刻な状況にあり、精神的に辛い立場にあるのに、命があるからよかったねと言っていいのだろうかと思い、安易にそんなことは言えないと判断したのだ。考え過ぎかもしれない。

しかし、私は一度も震災の被害者になったことがない。被害者となった家族を持ったことがない。彼らが、どんな言葉に傷つき、どんな言葉を求めているのか、そこがどうしてもわからない分、相手を思うほど言葉が見つからなくなるのだ。

職場にいる新潟出身者はNHKの「死者が何名になりました」というカウントに苛立ちを感じていた。新聞に載った被災地の写真を指さし、自分が住んでいた場所だと語るその姿が私から言葉を無くさせる。言葉は無力だ。だから私は最大の善意で接したいという心を全面に出して相手に触れるしかないと思って接している。

その震災の中で生き埋めになった子どもが救出されるという喜ばしい情報があった一方、またもやイラクで邦人が人質にされたという一報が入った。それを聞いて思ったのは、あのイラクで人質になった三人は、彼の姿を観て何を思うかということである。あの三人と書いた時点で、私の中では後で捕まった二人が人質として印象が薄いことに、ファーストインパクトとバッシングというものの影響力を感じる。

ジャーナリスト志望

新聞寄せられていたとあるNPOの代表者のコメントが興味深かった。今、イラクで何が起こっているのかこの目出みたいというジャーナリスト志望の学生が多いが、彼らのような経験も知識もない人間が現地に行ったところで出来ることはない、といった類の話である。まぁ当たり前といえば当たり前だが、興味深いと書いたのはこのコメントは暗に、高校卒業後にイラク入りして劣化ウラン弾の被害に関する絵本を描こうとした彼を批判しているようにも取れるからだ。

悲しみは物質ではない

飲み会の席で心理学への考え方が若干変わる言葉に出会った。それはJ大学副学長の「メカニカルだけを追い求めていっても、彼女(副学長の隣にいた人を例として)の悲しみが何なのかわかりはしない」というものだ。私は今まで心理を学ぶ上で、常に科学的かということに焦点があった。科学的でなければ信頼に足るものではないと考えていたからだ。

故に心理学でもっとも科学的に確かなのはブレインサイエンスだと、脳内における伝達物質などの増減であると思っていた。逆に統計学的に根拠があっても、行動の傾向から考えられる心理効果など信頼に足るものではないような気がしていた。

しかし、肝心なことを見失っていた。人の心は科学的に分析できると思う方がおかしいのだ。たとえ、科学によっていくつか説明が出来たとしても、最終的にそれが何かに踏み込むことは出来ない。科学を極めても、その人の悲しみを癒すことなど出来はしないのだ。悲しみは物質ではない。それを解きほぐすのもやはり、人間の心でしかないのだ。

 

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