空理空論な生涯学習論

記入日:2004/11/26

ある講義の最中、文章を読むように指示された年配の方が朗読を拒否した。読むように言われたのは生涯学習関係の資料なのだが、そこに書いてあるボランティアに関することが綺麗事過ぎるというのが、彼が朗読を拒絶した理由である。

「何もそこまで」と思わなくもないが、そう思うほどまでに彼の中にはボランティアに対する何かがあるのだろう。私などは単位を気にして意にそぐわない文章でも読んでしまうのだが、その辺が気骨の違いとでも言うべきものなのだろうか。

それにつけても、生涯学習関係の話を学者がすると、彼らの現実を無視した理想と世間知らずさを感じずにはいられない。学者や教授の多くは一度も社会(企業への就職という意味で)に出ることなく生きてきた人間達である。その彼らが本当に社会を考えられるのか、ということに疑問を持つ人は少なくない気がする。

そんなんだから、一流企業を退職したら重役だった人もただの人で家では粗大ゴミという話を、ダメな人生の典型として捉えて話してしまうのだ。そういった人がいるから、ある意味社会が営まれていることにも気づかずに。

会社にはいることでその会社の思考に染まり、またそうしなくてはやっていけないことへの精神の葛藤、そういったものを知らないまま理想だけ振りかざす、それはあまりにもくだらないことだ。

故に、この授業を受けた学業しか知らない若い学生は、自立という言葉をはき違えて「生涯学習をしようとしている妻が自立している。それに理解を示さない会社員の旦那は自立していない」などとほざくのだ(習い事をしたい専業主婦が、会社員の旦那からやめなさいと反対されていることへの人生相談ディスカッションにおいて)。

人との交わり

人と接する機会が増えるほどにストレスもまた増える。ストレスと言っても二つの解釈があるだろう。ひとつは精神的負担や苦痛といった意味でのストレス。もうひとつは単に刺激としてストレスである。先の言葉は後者の場合においてのみ、その比例関係は言える。前者も当てはまりそうだが、どんな人と会うかによって大きく異なるので、そうは言えないだろう。

くどい前置きだったが、今言うストレスは前者の方である。まず、職場での新人と教育担当の話は何度も書いたが、その間を取り持つための忘年会の企画が進行している。新人側の立場に立って、彼女(新人)よりの主張をする近くのセクションの女性が企画しているのだ。

彼女の意見だけを聞き、他所の話に首を突っ込んでくるのだから、こっちとしては迷惑なところがある。本当に問題を解決したいのなら、あの外罰的な女の欠点も知ってからにしてもらいたい。どうせ、教育担当の性格に難があるから、またアイツがとでも思って彼女を護る正義感面をしているのだろうが。

 

ランダム・ピックアップ