誰かをバカにしたい人々

記入日:2005/03/03

メディアはコクド前会長 堤義明氏の逮捕一色である。当然といえば当然である。何かが一気に変わろうとする、そんな瞬間に立ち会った気分でもある。その中で感じることがある。犯罪者となった瞬間から、その人のすべてを否定し始める、その風潮に潜む普段くすぶっている劣等感のようなものだ。まるで、逮捕がすべてのリミッターを外すかのように、逮捕者の何もかもを否定しても許される、そんなようの感じずにはいられない(注:別に犯罪者を庇い立てしているわけではない)。

ある番組で猪瀬氏(たぶん)が言っていたことだが、テレビのコメンテーターが彼が捕まったと知るやいなや、一斉に彼のバッシングを始めたがそうではない。彼の業績そのものまで否定はできない、それに変わることをあなたはできるのか的な発言をしていた気がする。

冷静さを欠いたバッシングへの反論と好意的に受け止めた場合、それはある意味において的を得た発言である。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うのは冷静な物言いではない。そんなことは私が改めて書くほどでもないのだが、不意に知人が口にした正論を思い出したので書くことにする。

大晦日前の居酒屋の席で、ある女性が植草教授の痴漢行為に関する報道のあり方、その受け止め方に疑問を投げかけた。部屋の中を捜索してみたところ、いわゆるエロビデオが見つかったことについて、普段から容疑者はこういうものを好んでいたのですね、と変体扱いで報じたことに関して、「男だったらそんなもののひとつやふたつ、あったっておかしくないでしょ?」と言った。

まったくもって正論である。まぁ、そのビデオの内容がマニアックだったとしたら、それは男の中でも希有な例と捉えることもできるが、その手のビデオがあったからどうということはない。しかし、私はそのとき彼女の意見には賛同しながらも、ある光景を思い出してニュースを見る側の望みを説いた。

某ビルの地下街には毎朝某社の新聞記事が貼られているのだが、そこの「植草逮捕」の記事を見た掃除婦が「あはは、植草バカでぇ~」と嘲笑していたことを告げた(持っていたビデオなども)。そう、彼女らには正論など、どうでもいいのだ。彼女らはただ、バカにできる相手を捜し求めているのだ。元が偉ければ偉いほどいい。その落ち度に自分の劣等感を満たせるからだ。何も職業的に蔑んで言っている訳ではない。たまたま、そういう笑いを求めていた人が掃除婦だっただけのことである。誤解無きよう。

突然、そんな話をしたので話の展開的に彼女も戸惑ったかもしれないが、昨今ではニュースも誰かにとって都合の良い加工が施されたものが好まれている気がしないでもない。恋愛に億劫になった知人が、SPA!の恋愛をしなくても楽しい男達の記事に共感し、これからはこうなんだと自分の価値観を正当化していた。

そんな自分にとって都合の良いニュースソースを求め、それをニュースのスタンダードとして捉え始めたとき、人は価値観の相容れない他者との距離をより遠く感じるやもしれない。それもまた、仕方のないことだろうけども、何か虚しさのようなものを感じずにはいられない。

自分が傷つき、怖れのない世の中を求め、自分は今のままの自分でいいんだと思い込む。それはそれで必要なことかもしれないが、ひとりの人間として必要なものまで、その安易な自己肯定の波にのまれてしまってはいけない。真っ当な大人として生きる上で、妥協出来ない部分があるように私には思えるのだ。

それはそれとして、久々にフィットネスクラブのような場所で汗を流した。エアロバイクを20分、その後は腹筋やおもりの持ち上げなどを行った。久々の割りには特に苦もなくこなせたような気がするのだが、腹の筋肉痛だけはなかなか消えそうにない。

 

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