アポ無しオバサン

記入日:2005/06/07

ちょっとした勉強会に思わぬ来訪者があった。私がいるクラスよりも上級のクラスの人なのだが、アポもなしに新たな参加者を引き連れてやってきた。来るなら来ると一言言って欲しいものだ。オバサンという奴は、一度知り合った者は友人と思い、多少の無理もきくものだと思っているからたちが悪い。

その勉強会の前に、例のベンチャー企業の授業があったのだが、今日のゲストのインテルの話はつまらなかった。元は3人で始まった起業とはいえ、今や大企業となって世界にその名を轟かせている会社である。そんなところの日本のトップが来たところで、自分で会社を興した人のような波瀾万丈の人生が語れるわけではない。

そういう意味では、ベンチャーを考えている人間にとっては物足りなさも残ったことだろう。ただ、インテルの常に自らが生み出したものを否定し、新たなものを考えていくという姿勢は参考になった。それでもやはりこの授業の主旨からは外れている気がしないでもない。というか、これではただの企業説明会ではないかと思えてならなかった。

自慢大会

前にも書いた自分の職業体験を中高生に話すボランティアみたいなものを手伝ってきた。中学校からの友人が指摘したとおり、そこに来る人たちというのは自分の仕事について話したい、いや自分について話したいと思うような人だけあって、自分に対して自信がある人というのが多い。

やれ弁護士だ、起業した、重役に就いている、有名大学を出ている……。話すことそれ自体から学ぶべきこともあるが、何か違和感のようなもの覚えて仕方がない。果たしてこれが本当に中高生の人生にとってプラスになるのだろうか。何かこうバランスの悪い人間を見せているような気がしないでもないのだ。そこに成功している者へのひがみ根性は存在しないわけではないのだろうが。

今回はその講師陣の中に同じ大学に通う社会人学生がいた。社会人相手のビジネスマナーの講師だけあって、話し方は見事な正しい話の仕方であった。ただ、この親しみの持てない見本的マナーで、果たして仕事がうまくいくのだろうかという疑問も残った。ビジネスでは信頼を置けるかどうかもポイントになる。そんなとき、この距離を感じる礼儀正しすぎる喋りには、大きなデメリットがあるのではなかろうかと思えてならないのだ。

丁寧すぎる喋りには無感情的な血の通わない人間性を感じてしまう。コイツとなら共に辛苦を味わってもいいと思わせる何かが、そう情熱と呼べるものは決して感じることはできないだろう。生きた人間の言葉、思いを伝える言葉は、決して人が生み出した形式的マナーの中には存在しない。ただ、社会人として一定のマナーが備わっていなくてはいけないこともまた事実である。そこの兼ね合いが難しいところだ。

 

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