意見と呼ぶべきもの

記入日:2005/06/10

朝、テレビのチャンネルを回していて不意に止めたチャンネルがあった。それは、BS-iでやっているニュースバードだ。何のこともないニュース番組なのだが、昨今のニュース番組とは違い、キャスターが一人カメラに向き合い、ニュースの概要を説明した後に詳細を伝える映像に切り替わるというオーソドックスな構成になっている。

コメンテーターや専門家がズラリと並び、ニュースを斬ると言わんばかりに辛口コメントを吐く民放の地上派ニュースに慣れていたせいか、何とも新鮮な感じを味わった。まぁ、衛生放送系はこの手の作りが多いのだが、ハッキリ言ってうるさくなくていい。

聞きたくもない作家崩れや女優もどき、胡散臭い学者や職業不明の輩のコメントを聞かなくていいのは、随分とスッキリした気持ちでニュースを見られるなと、十数分も見ていれば実感出来る。

事実だけを伝える必要性

本来、ニュースとは事実だけを伝えるものだったと記憶している。決して、出演者が視聴者の考えに影響を及ぼすような、酷い言い方をすれば洗脳するような物言いはしなかったはずだ。

それがいつしか、コメンテーターが毒を吐くのが当たり前になり、それにより嫌いな相手を斬ってくれることを望み始めた。それだけか、好きな出演者が言うことを絶対と信じ、自らの思考をやめ、自分の意見はその人の意見と同じにしてしまっている人を見かけるようになった。

「あの人はああ言っていた」「あの人がああ言っていたから、こうなんだ」、その揺るがない自信は根拠がないことを彼らは知らない。好きな人の考えは正しい、その疑いのなさに一抹の不安を覚えずにはいられない。そして、情報というもののあり方を改めて考えさせられる。

仕事に追われて時間が無く、ニュース自体も見られなくなり、その社会的問題の本質は何なのか知る気力も湧かなくなるとき、得てして人はもっともシンプルな発想にたどり着く。

「すべて、あの国が悪い」と一方の汚点だけに目を向け、「アイツはバカだ」と自分を棚に上げて中傷する。常に社会悪は自分の外にあるので、何も悩まずに済む。自分もこうしなくてはといった使命感を感じることもない。その現象を憂えたところで、私とて同じ環境にあれば同じ轍を踏むのだろう。

前にも書いたが、恋愛を出来ない人が恋愛を否定的に書く雑誌の意見に賛同し、それがこれからのスタンダードだと言う。ろくに事実背景を調べもせずに、自分に近しい者を正しいと思い、その反対側の意見を聞こうともせずに、必要以上の敵意を向ける。それらを見ていると、必要な情報よりも都合のいい情報の方が、個人的レベルにおいて影響度が高いと言わざるを得ない。

バカの壁ではないが、人は欲しい情報だけを吸収し、また求め続けることで、「こんなにも、この手の情報がある。これこそが主流だ」と言わんばかりの顔をする。広く公平に情報を集めたわけでもないのに、収集に自分の好みが色濃く反映しているのに、そんなことはお構いなしに。

自らの思考を誰かに依存する

そもそも、情報とはいったい何なのだろうか。ニュースとはいったい何なのだろうか。「私は大人として社会的問題を捉えています」と言った顔で話すのは、何処かで聞いた誰かの意見だ。「これが私の意見です」と自信満々に言い、その根拠を問うと「著名な誰それさんが言っていたから間違いない」と言う。それの何処か「私の意見」なのだろうか。

確かに、専門家の意見は信頼性が高いかも知れない。専門的知識を持たない者より、持った者の方が見識も深いかも知れない。しかし、それとこれはとは違うのではないだろうか。その専門家の意見を踏まえた上で、自分の意見を持たずにどうするというのだ。

自らの思考を誰かに依存し、問題を考えるのを他人にしてしまっては、その人の「意見」など存在しなくなるではないか。これでいったい、社会の何を見つめると言うのだろう……と、思わず長々と書いたが、この番組を観ようと思ったのは、アナウンサーの松井陽子さんがキレイだったからだ。

 

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