死んでも生き返る

記入日:2005/06/16

長崎佐世保の事件を受けてだろうが、何処ぞの新聞がやった「死んでも生き返る?」というアンケートで、20%超の小学生が「生き返る」と答えた結果を受けて、教師を目指す人が道徳教育で人の死を教えられるかといった話題を振ってきた。

それに対し、小さい頃から身の回りに「死」を感じていたという女性がいた。同じ中学校には子宮ガンで死んだ子がいた、高校ではバイクで死んだ奴がいた等々、こんなにも私の周りでは人が死んでいると自慢げに聞こえたので、思わず「死に神ではないか」的な言葉を口にした。どう言ったのかは覚えていないが、きつい言い方ではなかったのを覚えている。

その言葉を口にした後も、普通に会話して別れたのだが、今更になって気になってきたので、一応謝罪のメールを送った。その場では、一緒にいた話をふった男が「酷いよ、それ」と笑って指摘しただけで終わったのだが、何だか妙に気になったので謝罪したのだ。なにぶん、死に関わることである。

とまぁ、書いたものの、あの女が死をきちんと考えているとは思えない。「中学生で子宮ガンだよ、まだ使ってもいないのに」という辺りに、低俗な雰囲気といったものを感じずにいれない。

例の名簿を取りに来いと何度言っても来なかった女だ(本来なら配布側の人間なのに)、30を過ぎてたいした人生設計もないまま常に男を求める女だ、見た目はいい年をしてギャルそのものな女だ……。深い考えなどあるはずもない。まさに杞憂だなと今更苦笑する。

まったく話は変わるのだが、この間スポーツニュース番組と呼ぶべきものを観ていて、ゲストで呼ばれた楽天ゴールデンイーグルス監督の田尾安志氏が、三宅アナに「交流戦はどうですか?」と聞かれて、「楽天はすべてが交流戦ですから」と真顔で言ったのが印象的だった。つまり、妙におかしかったので書き留めておく。今年の名言のひとつとして。

何かをやめたい

たまに、「やめたい」と心の中でつぶやくことがある。具体的に何をやめたいと思うのではないが、やめたいとだけ思うのである。やめたい、それは所属している組織のうちのどれかをやめたいということなのだろうか。いや、過去に所属したものまで含まれているような、そんな気にさえなってくる「やめたい」である。

酷く沈んだ感情でそれは発せられる。何もかもやめたいのではないか、と悲観的な見方もできるくらい沈んだ感情がそこにある。「やめたい」と何をやめたいのかわからないままつぶやき、憂鬱な気分に私は苛まれるのである。現状に満足出来ていない、不本意な自分を演じていることへの苛立ちがそこにはあるのかもしれない。やめられないから、やめたいのだと。

結婚の催促

人は毎年一度、死に近づく日がある。これが歳を取るということだ、祝っている場合ではない。とは冗談ではあるが、もう歳を取っても悲しさが募る歳になってきている。それは私自身が何もやり遂げていないから、かもしれない。

親からは結婚の催促とでも言うべきメールが届く、私の同級生達の結婚話が耳に入ると。そんなことは知ったことではない。結婚したい奴はするだろうし、したくない奴はしないだろう。別にそこに人間的な優劣などない。まぁ、あの親なら子孫繁栄は生物の義務だというのかもしれないが(それ以前に、私が結婚することで一人前になったと彼らは安心するのかも知れないが)。

それはそうと、今日は地元に戻る友人の送別会をかねた飲みに出かけた、とはいえいつものように飲んで喰って彼の家に泊まっただけだが。ただ、これでもう彼と東京で飲み歩くことがなくなるのかと思うと寂しさを感じずにはいられない。中学校からの知り合いで趣味も通じている彼である。彼ほど話の合う相手などそうそう見つかりはしない。貴重な存在が身近から消えることは心に穴が空くと言っても過言ではない。

 

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