遠回しな肯定

記入日:2005/07/14

なるべくならやった方がいいというか、相手を気遣ってやるべきものを、気遣われる側である私自身が言うのは難しい。「私を気遣いなさい」と自ら言うようで、おこがましさを感じるからだ。言いたいことも言えない日本人と非難するのは簡単だが、これが慎み深さという美徳と自己主張の必要性の境目の問題だとも思う。

ただ、今回は今後のこともあるので、「(その仕事を)やってもらえると助かる」と言うことにした。すると、相手は別件の仕事をしている最中だったので、「今日はちょっと……」と言うので今日のところは私がその仕事をすることにした。明日に持ち込むといろいろと厄介だからだ(明日は彼が休みなので今日催促したのだが。正直言って、全部私がやってもいいのだが、何でもかんでもやっていると働かなくなるので線引きをしようとした)。

その仕事が一区切りしたところで、その先はやるという風に言ってきたのだが、お互いにもう定時を過ぎようとしていたので、残りは私が明日やるからといって終わりにした。その後、私は「2人だと何かと不便だね」と人員が減らされた問題に触れた。今回の仕事の件も、この人員削減によって生じたところがある。先方は「仕方ないですよ」と言って、その日は終わった。

何でもない会話である。ただ、この「2人だと何かと不便だね」には私流の気遣いがある。私と彼の間で仕事をやる・やらないの話をしている間は、互いのやりとりが直線的だったのに対し、「2人だと何かと不便だね」という言葉一つで、組織の構造的問題が間に入ったのだ。

大げさではあるが、それによって直接的な関係から、ひとつクッションを置いた関係に変わり、感情のぶつかりを少なくしたつもりだ。相手の言い分が正当性を持っていたとしても、直接批判されると人は面白くないものである。理屈ではわかっていてもだ。

そこで、<私>「(その仕事を)やってもらえると助かる」=<相手>「自分(先方のこと)の配慮不足で言われた」から、<私>「2人だと何かと不便だね」=<相手>「人員削減のせいで言われた」に変わるのだ。

そこには相手の罪の意識を少なくするというデメリットもあるが、必要最小限の促しで十分な相手の場合、それはさして問題にはならないだろう。兎にも角にも、批判を受けた怒りの矛先が私にではない、第3のポイントに向かい、そこが共通の「仮想敵」となることで結束が増すことになる、と日常の些細な例から大きく展開させたがメモ代わりにかいておく。

いくらでも悲観的になれる

職場で前に座る奴が、この間 知人と将来のことについて話したことを喋ってきた。ソニーを例に挙げて、立派だと思っていたら実は中身が腐っていた、日本を代表する企業の多くがそのようなもので、それが明るみに出ることで消費が冷え込み、経済的に思わしくなくなっても不思議はないといった話だった。

そこに引き合いに出されたのは、アルゼンチンのインフレだった。自分は知っているんだと言わんばかりの顔で言われ、思わず「アホか、お前は」と心の中で呟いた。彼の言うそれには、正直言って説得力がない。世の中など、悲観的に見ようと思えばいくらでも見れる。

そのときは、経済は水物だし、誰もそう簡単に予測はできないだろう的なことをいい、濁して済ませたのだが今になって言ってやるべき言葉が見つかってかえって腹立たしい。雪印からメグミルクにかわった例でも挙げればよかったと今更ながら思うと同時に、どうせまたたいして考えもせずに喋ったのだから真面目に受け取ることもなかろうと思い直した。

逆に言えば、深く突っ込んでも相手を苛立たせるだけで実質的な得には繋がらないので、あれはあれでよかったのだと思える節もある。彼に私がどう思われようが、私の内における利益には何ら影響はない。評価されたから何だという感じはある。ただただ、仕事がしやすければよいのだ。

相手は自分の及ばない知識を持って考えているのかも知れないという謙虚な気持ちが少なからず心の隅にいつもあるので、あまり相手の意見を真っ向から否定することがないのが私である(生身のやりとりでは)。その人に対する素直さのようなものに私自身苛立つこともあるのだが、その素直さ故に人間関係においてギスギスしたものを感じずに誰とでもそれとなくやりとりしてきたような気がする。私の心の犠牲はさておいて。

帰宅後、1ヶ月前からいつか喰おうと取っておいたくずきりを食べた。100円のセールで売っていたものだが、甘く冷たい夏の和菓子という期待を完全に裏切った味だった。実にまずい。何だコレは? たいして甘くない黒蜜、出来損ないのこんにゃくとでも言うべきくず……。これは拷問だ。

 

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