寄居玉淀水天宮祭

記入日:2005/08/06

花火を観にわざわざ埼玉は寄居まで行ってきた。池袋から東武東上線で小川町まで行き、そこで乗り換えて寄居である。時間にして1時間半、電車に揺られて埼玉県。何でこんなに遠いところまで花火を見に来たかと言えば、知人の知り合いがそこにいて、毎年 彼がそこの花火を観ている関係から誘われたのだった。

ここの花火の他との違いを言えば、大会関係各所のPR文を引用するならば「関東一の水祭り」である。鉢形城跡から打ち上げる花火と、舟山車の光が川面を美しく彩ることとのこと。水天宮は水難よけに祀られた神様で、今は安産の神でもあるそうな。というのが一般的な違いの部分だが、実際行ってみて思ったのは打ち上げた花火の破片が降ってくる花火大会だということ。

川辺でというか川のすぐ傍で観ていたので、川を挟んだ向こう岸の絶壁の上から打ち上げられる花火が頭上で炸裂し、花火玉の厚紙のような外側の部分がパラパラと風向きによっては降ってくるのである。

おかげで、目に入ったり、髪の毛にくっついたりと不快この上ない。これもひとつの風情とでも思えばいいのだろうが、暑さと酔っぱらいの鬱陶しさで、プラス思考には捉えられなかった。

その酔っぱらいは他ならぬ知人の知り合いである。いいことがあって嬉しいのはわかるが、酒に酔って絡むことはなかろうに。娘に膝枕してもらい、頭上の花火を撮っては、一眼レフのカメラ(デジカメ)と撮れた写真を自慢し、誇らしげに写真を見てみてと言う様は子どもに他ならない。ついでに、うまく撮れないときは娘が足を動かしたと云う始末……。

写真に関してはまだ扱いやすいのだが、人生論に関しては まったくもっていただけない。どうして中年を過ぎると人は自分の人生を誇らしげに語り始めるのだろうか。若者をつかまえては人生とはかくあるべきかを語り、自分はこんなにも優れた人間だという自慢を始める。歳が下だというだけですべてが勝っていると勘違いしている。

人もまた古くなる

自分が結婚した経緯を語り、すべての結婚というものが同じような経緯だという言い方をする。つまり、自分の人生における法則が全人類に共通したものだと信じて疑わないわけである。女の人は顔が良い男とか金がある男とかではなく、頼りがいのある男だから結婚に踏み込むんだと自ら云う。一見、正論にも思えるが、ハッキリ言って間違いだらけだと思う。

周りを見てみれば、顔で結婚した輩はうじゃうじゃいるし、金で結婚した奴は更に腐るほどいる。頼りがいで選ばれたようなことを言うが、奥さんに聞いてみればおそらく違った見解を示すだろう。女性は意外なところで男性を気に入ったり、結婚に踏み切る最後のトリガーにしていたりする。それは男が想像の及ぶ世界ではない。

何より、彼らの世代の若い女性と現代の若い女性の考え方には大きな違いがある。それを踏まえずに語る時点で、時流からそれた過去の人であるともとれる。悲しいかな、人もまた古くなるものなのだ。

だから生命には寿命があり、生き物はその代謝により常に古くなりすぎない状況を維持するシステムを確立したのかもしれない。どんな賢人とて、過去を引きずらないわけにはいかないのだ。

他にもいろいろと言いたいことがあったが、知人の知り合いには変わりないのでやめておこう。人は老いて、酒を呑めば、ああもなるのだろう。誰彼構わず、その可能性はある。それにしても、他者を貶し、自らを誇り、説教をしながら、自分の人生観を押しつけるのに公務員が多いのは何故だろうか。

ちなみに、花火大会会場には場所取りのために5時前からいた。花火は7時から始まり、第二部の涼しくなった辺りで、遅れてきた人が合流した。一番良い時期に来て(酔っぱらいも落ち着き始めた上に涼しい)、一番良いところから(最前列)観られた彼らが羨ましい……。

 

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