自分の幸せしか考えていない

記入日:2005/11/09

学祭後の飲み会(二次会)の会話を度々思い出す。話題は恋愛から入った。一緒にいた頭の足りなそうな男が、それ以外の話題は受け付けない感じだったからだ、というか気付いたらもう始まっていた。彼曰く、「好きだと思っているのに、それを言わないことほどくだらないことはない」だそうだ。

それだけ聞けば頷く人が出ても不思議ではないが、問題は彼が彼氏のいる相手に何度もアタックをかけていることだ。いい加減に気づけ、確かめてからやれよ等々言いたくもなる。おまけに、付き合っている男がいる相手としか、最近は肉体関係を持っていないらしいと来ている。ダメ人間じゃないか。

それにも関わらず、自分の価値観こそが絶対といった感じで人に同調しようとはしない。人の意見には耳を傾けず、自分の意見を通すことしか考えていない。好きな相手の幸せなんかよりも、自分の幸せしか考えていないと公言してはばからない。

別に飲みの席だし、私にとって取るに足らない存在でしかなかったので、いつの間にか頭の中が適当なお喋りモードに換わっていた。ただ、彼への不快感からか、彼と同じ意見だけは持ちたくないという思考回路になっていたので、彼の逆を行く天の邪鬼発言を連発させた。本能で生きる彼に対して信じてもいない心理学の理論で武装してみたり、彼には大脳新皮質がないと言ってみたりと、我ながらくだらないことをやったなと思う。

終わってみると、価値観の違う人間というよりは、物の見方が特異な人間、もしくは成長途中の人間と話してもストレスになるだけだなと思った。いろんな人と付き合いなさいとは言うが、こんなのと付き合ってどうするというのだろう。30も過ぎて恋愛話しかできない男とである。あまりにも大人の男としてつまらない存在ではないか。

しかし、人と接するたびに思うのは、嫌な人間ほど煩わしく感じる存在はないなということである。そして、自分が認めることのできる人物はそうはいないということと、フランスのサルコジとは一緒にされたくないが、思想的「クズ」が多いということである。自分と合う人はいるものの、ほとほと私は基本的に人間が嫌いらしい。

そう言えば、職場で「動物が嫌いだ」と言ったところ、「人間もでしょ」と言われたことがあった。妙に嬉しいところがあった。たぶん、理解されたことへの喜びだろう。嫌な人間だな、私は。これだから人間って奴はいけ好かない。

顔で決める

異性を見るときに「顔で決める」と言うと、暗黙のうちにビジュアルが美しいか否かが判断基準という意味を含むことが多い。つまるところの「面食い」=「顔で決める」という図式が成り立っているからだ。しかし、何も「顔で決める」人が美を求めているとは限らない。「顔で決める」とは顔という情報源から、ある特定の情報を得て判断しているに過ぎないのだ。

その情報が顔の美しさであれば、いわゆる面食いなのだが、顔という媒体を通して感じる内面的要素だとしたら、それも「顔で決める」と言ってしまってよいのだろうか。その際における判断基準は「顔」そのものよりも、「顔」を通してわかる「他の何か」になるからだ。それでも、見ているのは「顔」だから、判断基準は「顔」であると言い張ることは勿論できるし、おかしな論法という訳ではないだろうが、何かこう釈然としないものが残る。

それは判断における最重要ポイントが「顔」そのものではなく、「顔」を通してわかる「他の何か」だからだ。そもそも顔とは、あらゆる内面的情報が表現される場所である。喜怒哀楽の感情という心的情報も出せば、体の具合も顔色や肌の具合となって現れる(病気で黄疸が出る場合もある)。「顔」はもはや対象人物の縮図なのだ。「○○の顔」という言い方があるが、この言葉がまさにそれを実証していると言える。ということで、顔が好みという言葉は思いのほか深いではないかと記しておく。

 

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