組織は腐る

記入日:2005/11/17

組織とは放っておけば腐るものである。以前、あれほど話し合った個人情報の取り扱いで、貸し出してはいけない資料を貸そうとしたので、それでいいのかと聞いたところ、「えっ、そうなの」と上司に言われた。別の上司に聞いたところ、「部長に確認して」と言われて聞く羽目に。

部長も部長で「いいんでない」である。これでは、相手と気分によって対応が変わる客観性に欠けるローカルルールに過ぎないではないか(つまり、ルールにすらなっていない)。本来であれば、というか以前決めたルールでは、その借りに来た人に貸す場合は他部署を通してからであり、今回貸した資料の一つは決して貸してはいけないものになっている。にも関わらずのこの対応。いくら社のゴミが集まったとはいえ、もう少し何とかならんのだろうか。

おまけに、この「えっ、そうなの」上司は面倒な貸し出し物を私に押しつけた。お前が受け付けた奴の一番面倒なのだけ回すなよ、こっちはお前よりも忙しいというのに、このバカ。私が一人せっせと動く横では、部長がパソコンでピンボールをやっている始末。いったい、何なんだこの職場は。

そもそも、昼休みの時間が一時間だというのに誰も一時間で戻ろうとしない。「ちょっとタバコを吸いに行ってくる」と喫煙所に駆け込むが、やはり数十分は戻ってこない。このタバコを吸う時間というのは、早い話がサボリと同じだ。他の吸わない人間が働いているときに公然と休んでいるのだから、吸わない人間にしてみれば労働時間の不公平さが生まれていると言ってもいい。

人は大企業がいい、大企業がいいと言うが、そこにあるのは死んだカルチャーだけだ。出る杭は叩かれ、事なかれ主義が台頭し、自分の保身にだけ神経を使い、長年の付き合いで生まれたしがらみで雁字搦め。そこから新しいものなど生まれようハズもなく、効率性や利便性といったものを追求する気概は失せ、自分は大企業だといういらぬ自尊心だけが強くなっていく。知られれば終わりの不祥事を常に隠し、本当はギリギリのところで威張り腐っているに過ぎない。

ただ、唯一の救いは資本主義社会は競争社会であり、新進気鋭の企業に駆逐される運命にあるということだけだろうか。やがて、その企業も大きくなるにつれ、トップが初心を忘れるにつれ、腐っていくのかも知れないが。ああ、だからなのだろうか。生命は生と死の繰り返しで繋がっているのは。

善意という強さ

人は自分が間違っていないと思えば、強く振る舞えるものである。その間違っていないという信念が強いほど、人は強くいられるのかもしれない。人が正論を振りかざすとき、そこには誤った者を導くという使命感の他に、自分の正当性を確認することで得る優越感のようなものを垣間見る場合がある。

例えば、人の揚げ足取り、ダメ出し、重箱の隅をつつくような指摘。そこには相手を思う気持ちよりも、「相手を打ち負かした」=「自分の方が優れている」というわかりやすい優越感に浸る姿が想像される。人は何故に他者よりも上であろうとするのだろうか?

そう書いてしまうと、SMAPの「世界に一つだけの花」の歌詞のようになりそうだから、その問いには自ら優れた種を残す生物の基本原則がそうさせているのだ、とでも書いておく。話がだいぶ思わぬ方向に進んでしまったが、書きたかったのはそういうことではない。

今日、電車に乗った際に、空いている席を老婆に勧められた。すぐに降りるのでわざわざ座ることもないと思って立っていたのだが、老婆の優しげな顔を見たら座る以外の選択肢がなくなってしまった。そのときの彼女の顔に、善意というものほど、強い信念はないなと思った次第である。

一言くらい言うのが礼儀

所用で職場の同僚が一週間いなかった。その間、私は一人で自分のいるセクションでやらなくてはいけない最低限の仕事をすべてこなした。大変と言えば大変なのかもしれないが、私に言わせれば あの職場で大変な仕事などないと言っていいので、別にこのままずっといなくてもいいとさえ思った。

だが、久しぶりに彼が戻ってきて、その一人で仕事をこなした一週間へのねぎらいがなかったので、いくらなんでも一言くらい言うのが礼儀というものじゃないのかと思わずにはいられなかった。まぁ、一週間前には「苦労をかけますね」みたいなことは言っていたが、やはり先にも後にも言ってこその気遣いというものではないか。

それと関係しているのか知らないが、その同僚に使えなくて評判の上司が今週はよく絡む。グダグダとくだらないいちゃもんをつけて勝手にキレている。いったい、どうしたというのだろう? 一度 頭にメスを入れておかしくなったと言われている人なので、考えても理解はできないだろうが。

 

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