葬儀は本当に必要なのか

記入日:2006/5/1

母方の祖母が亡くなった。知らせを受けたのは正午過ぎ。当然のごとく北海道旅行の計画の変更が求められる。何もGW前に亡くなることはあるまいにというのが素直な気持ちだ。

私は葬儀というものが嫌いだ。誰も好きな人はいないだろうし、やりたいと思う人も葬儀屋と坊主くらいだろうが、宗教行事そのものが嫌いなのである。

禁欲をしていない日本の坊主が海外の仏教関係の話し合いに参加すると、まったく相手にされないという話を聞く。禁欲していない奴は信仰心がないのと同じというのである。妻帯し、酒を呑み、ベンツに乗るようでは無理もない。そんな奴がお経をあげたところで、いったいどこに有り難みがあると言うのだろうか?

といった宗教的見地から言ってやることもできるが、死者の弔い方というのに、何か違和感を覚えるのだ。親戚一同集まってあれやこれやと話し合う姿は正直言って滑稽だ。

れぞれにスケジュールというものがあるのに、それを無視して呼び寄せられ、何をするでもなくブツブツと何を言っているかわからない言葉を聞くのだ。これって変だ。

実に非生産的な光景である。古代の暇な社会ならいざ知らず、このクソ忙しい現代に生きる者が、もう動かない人間のために集まるのだ。それであれやこれや言うわけだ。そこで悲しい、悲しいって言うわけだ。

でも、本当に悲しかったら、静かにその人を悼むのではないのか? 忙しい、忙しい、今日休んだ分の仕事が~と言いながら来てる人が、本当に死者を悼む気持ちになれるのか?

滅多に顔を合わせない親戚が集まって、話が噛み合わないまま悲しい悲しいとほざくのだ。いったい、何が悲しいのかわからない。

葬儀とは亡くなった事実を伝え、死を受け入れる行事だとするのなら、もっと効果的な現代にあった手だてはないものかと思うのだ。今回のそれは、形骸化した葬儀屋と坊主の金儲け行事に他ならない。

今は昔のように親戚一同、同じ土地で暮らしているわけではないのだ。遠方の人など、呼ばれたら断るわけにもいかないし、行ったら行ったで予定が大幅に狂って大変だと思うのだ。

葬儀にも変化が求められる

ならば、である。それぞれのやり方で死を悼んでもいいのではないかとも思えてくるのだ。無理せずに行ける時に死者の家に行って生前を語り合う。スケジュールの合う時に、落ち着いた気持ちで行って死を受け入れる。

その方が自然だと言えないだろうか。過去の伝統とやらは無条件で立派なわけではない。時代に即して変わってきた結婚式のように、葬儀にも変化が求められるのだ田舎の連中に言いたくもなる。現にお別れ会という名称で、多様化が進んでいる面もある。

そんなことを考えながら、私はアメイジング・グレイスを鼻歌で歌う。なぜか、この曲が思い浮かんでくるのだ。ああでもね、私という人間は死者に対して何一つ悲しみを抱いていないのだよ。そういう男なんだ。生者が死者のために動くのが解せないのだ。

火葬

火葬は午前中に執り行われた。母の実家まで午前8時30分までに集合し、それから色々やった後に斎場に向かうのだ。色々とは、棺桶にお花を入れたり、斎場で飲むビールを買ってきたりとか、そんなところだ。

一昨日の日記は感情的になって書いたので、あんなものになってはいるが、実に穏やかな流れの中ですべては進んでいった。仏が天寿を全うして亡くなられたこともあり、親族は心の準備ができていたようだ。まぁ、「オラはもう、ダメだから」が口癖の人だったが……。

GW前に亡くなられたことで、集まった人の中には私同様、旅行をキャンセルした人が結構いた。ただ、米所らしい受け取り方があった。「これから田植えで忙しくなるもの。それ気にかけて、迷惑なんねぇように今を選んだんでねの?」とうのだ。

あと、GW中だったから、休暇申請をしなくて済んだのでよかったとも。考えてみれば、私も授業のある日でなくてよかった気がしないでもない。生者の都合ばかり書くと祟られそうだが、こういった気持ちというのも残しておきたいので書いておく。

火葬前に、今一度顔を拝む列を作る。何度見ても仏の顔は生前より小さくなってしまったように思えて仕方がない。お花を棺桶に入れた時、他の人がしたように私もそっと仏の顔に手を触れた。なかなか消えない冷たさが手に残った。

仏が焼かれている間は、遺影の前に置かれた水を汲んでは捨てるのを繰り返した。仏が暑がらないように、喉が渇かないようにという意味があるらしい。私は曾祖母が亡くなった時に葬式に出た頃はあるが、あの時は仕事の関係上火葬には間に合わなかったので、火葬に立ち会うのは今回が初めてである。

こんなことを書くのも何だが、焼けるのには随分と時間がかかった。予定の一時間から一時間半というのを過ぎていたと思う。後から焼き始めた仏より、終わるのが後になってしまった。仏は体が小さいので時間がかからないだろうという意見もあったが、火葬の時間は調節されるそうなので違うだろう。

小柄だからあまり油はいらないだろうってケチったんだ、とか。一緒に燃やしてもらおうと入れた常備薬がいけなかった、とか。冗談半分に遺族が言い合っていた。ふと、ジョーク、とくにブラックユーモア的なものは、もしかしたら当初は笑えない不幸を笑ってやることで吹き飛ばそうとしたものなのかもしれないと思った。

骨になった仏は随が遺骨を喪主が、胸骨辺りを係の人が、それ以外を集まった人が箸で取っていった。取ったものは骨壺に入れられ、母の実家へと戻ることになった。骨壺、遺影、あと何かの3つは常に一緒にあるように、3つ揃って1つですからと係の人が言っていたので、骨壺を持った喪主と、遺影を持った喪主の次女、あと残りを持った喪主の末っ子が行動を共にしていた。

斎場から戻り、家に入るときには、玄関に用意された手洗い場のようなところで水を汲み、うがいをして手を洗った。地域によっては、うがいはせずに手を洗うだけだとか。同じ県でこうも違うのだから、全国規模で見れば色々なやり方があるのかもしれない。

今回、数珠は右手の中指にかけただけで拝んでいたが、これも地域によっては異なってくるのかもしれない。マナーブックのようなものに、どう書かれているかは知らないが、こういったものは郷に入りては郷に従えである。

斎場では他の仏の遺影も見た。その中に赤ちゃんのものがあった。骨拾いに行くとき、私の後ろにいた老女が、遺影写真を見て「可愛いね」と言った。複雑な気持ちだった。先方の遺族が聞いたら、どう思うだろうかと。

それとは少し意味合いが違うが、後でXXが「あの写真、合成っぽい」と言った。さっき遺影で検索してみたら、デジタル加工云々といった文字を見つけた。そういったことも仕方ない場合もあるだろうと、空虚な気持ちで捉えた。

火葬に関してはだいたいこんな感じだった。家に帰る途中、窓の外に見える田んぼを見ていると、XXから戻ってきた日のことを思い出す。一反部で取れる米の量と値段を聞き、「私はこの米を食うだけの仕事をしてきたのだろうか」と思わずにはいられなかった日のことを。あの会社での駆け抜けたような数年間と、そこでしてきた仕事のことを考えると情けなかった。

あれから数年、私はまた故郷を離れて暮らしている。実家に帰るたびに思うのだ、こっちの人は地に足を着けて生きていると。都会では何処か、雲の上でも歩くような気分である。何もかもがヴァーチャルな気さえする。そういうこともあって、私は過去に都会というものをおもちゃ箱に例えたことがあった。今もその感覚は変わらない。何でも入っているおもちゃ箱、楽しいことが詰まっているおもちゃ箱。でも、それはおもちゃでしかない。

田植えが始まる前の土が起こされた状態の田んぼを見て、今一度自分に対して問いかける。「私はこの米を食うだけの生き方をしているのか」と。答えがNOだから情けない。情けないと思うからまた、私は地に足を着けて歩いていくのだ。

親戚一同の共同作業

葬式の日である。式は正午からだったが、準備等々あるので早く行くことになった。でも、特にすることはなく、暇をもてあました。喪主の周りの男性陣数名は、席の位置が変更になっただの、来る人の数が増えただの、仕出しの発注にミスがあっただのと慌ただしかった。

私の本日の役目は下足番である。来客者の靴をお預かりして番号札を差し込み、同じ番号の札を靴の持ち主に渡すという役回りだ。別に説明もいらないだろうが、一応書いてみるとそうなる。それ以外は特にすることもない。だが、いつか自分も式を取り仕切る側にまわるのかと思うと億劫である。大半は葬儀屋任せになるのだろうが。

式自体は一時間半ほどかかっただろうか。私は遅れて来る客にそなえて玄関で帳簿を広げて待機していたので、式が始まってからの十数分は参加しなかったので参加時間は一時間ほどだろう。

私が参加してすぐにご焼香がはじまり、しびれた足で立ち上がる人々を見ることになった。立ってするご焼香は親族側だけで、一般参列者はしなかった気がする。代わりに後でご焼香セットのようなものが回され、座ったままご焼香をしていた気がする。そのセットは親族にも回された。なんだか、よくわからないが。

ご焼香の後は坊主のありがたいらしい念仏の出番である。今回、坊主は五人いた。一番偉そうな人だけが中央の椅子に座っていたはず。念仏はハモっていた。五人がかごめかごめをするようにぐるぐる回ってお経を唱えることもあった。

亡くなった祖母のひ孫にあたる女の子がお別れの言葉を言い、弔電のご奉読を父が行い、最後にもう一度念仏があってお終いである。弔電では名前を覚えてほしい議員の名前がつらつらと読み上げられた。もちろん本文は省略された。亡くなった人物のことを何も知らない人間たちなのだから当然だ。

これで葬式が終わりかと思いきや、何人か一般の客が帰った後で再度念仏が始まった。坊主が「○○を始めます」と言ったような気がするが覚えていない。それが小一時間続いて終わったときには二時過ぎだった。この後は、寺の奥座敷に用意された席で、酒を呑んで物を食うわけだが、私はもう帰っていいと言われたので一足早く帰宅した。

終わってみて思うことは、やはり要らぬものに金がかかりすぎではないかということ。何で坊主を五人も呼んで八十万近く払う必要があるのだろうかとか、何かにつけて酒を振る舞うのはどうだろうとか、まぁ、そんなところだが簡略化できるものはしていってくれないと、引き継いでいく側はたまったものじゃないだろうとか思ったり思わなかったり。ただまぁ、結婚式のケーキ入刀が夫婦の共同作業ならば、葬式は親戚一同の共同作業のような気もしないでもない。

 

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