知能障害者の犯罪

記入日:2007/1/9

ゲスト講師による講義は、いわゆる罪を犯した知能障害者を擁護する弁護士のお話である。知能障害者が軽犯罪を犯して入所し、出所してすぐにまた罪を犯すという連鎖について、様々な問題点が挙げられたように思う。

まず、入所時に身体障害者手帳などを持っている場合は、入所と同時にその権利を奪われてしまう。出所後に申請しなおしとなるので、まさに1からはじめ直さなくてはいけないのでしんどい。次に、刑務所内の労働で得た賃金を持って出たとしても、路頭に迷うほかないようなケースが多い。何より、そういった障害を持っていることで、身内が誰も引き取りに来ないケースもあるのだという。

さて、本題はここからである。先に挙げたような人が事件を犯した場合、実例を挙げて言えば幼児を歩道橋から下へ落とした場合、我々はその事件をどう捉えるべきかという話である。その講師の元に来る記者は口々にこう言うのだという。「危ない連中は隔離すべきだ」と。

それに対し、講師は異を唱える。内容はまぁ、よく聞く話である。彼らは、その性質故に罪を犯そうと思ってしたわけではない。刑事責任はない。例えば、水が好きな先のようなケースの人がいたとする。すると、その人は自分が大好きな水に、同じように好きな子どもを入れたいと思う。だから、橋の上から子どもを川に落とすのだという。今回の件は、歩道橋であるから同じとは言えないが、そういった悪意のないものだったという。

だからといって、落とされた子どもの親からすれば、そんな説明で納得できるものでもないだろうし、例え性質的な問題だと理解しても、そういった「わけのわからない」存在を身近に感じることは嫌だろう。人は常識の中で生きている、非常識に触れることは自分の常識を保つためには避けたいものだ。非常識に浸れば、それが常識にとって変わるのだが。

刑務所費用は250万

話を戻す。更に講師は優生思想と遺伝的発生率の話をした。アウシュビッツで虐殺されたのはユダヤ人だけではなく、知能発達の遅れた者や精神障害者もいたという話だ。彼らを隔離しろとはナチスと同じ思想だと主張した。更に、彼らが誕生する確率は1%。100人に1人生まれるという医学的数値がある現代において、優生思想的排除の無意味さは立証されているとする。

果たして、そうだろうか。それは勿論、彼らに人権というものが存在する以上、その生まれだけで隔離するのは法的に問題があるし、倫理的とは到底言えないものだろう。しかし、残念ながら無意味とまでは言えないのではないか。現実問題として、この社会にとって彼らは受け入れがたい存在なのは事実である。彼らを労働力として使える企業がどれほどある? 彼らを必要とする組織がどれほどある? 何不自由なく生まれついたものですら、平凡な毎日のために四苦八苦しているというのに、である。

むしろ、この社会から離れた方が、彼らとて幸せではないかと考えることがある。めまぐるしい変化の渦の中で生きろと、俊敏な思考のできない彼らに言うのは酷な話である。それならば、時の流れを感じない緩やか世界で、似たような者達と老いを重ねた方が、お互いにとっていいような気がしないでもない。そう、この社会と彼らに流れる時間の早さは違いすぎるのだ。

何だか、書こうと思っていたことから離れてしまった。補足ではあるが、この弁護士は無料で彼らの弁護をしているのだという。そんな私をサポートしてくれ、という組織があって、そこに入ってくるお金で生活しているのだという(遠回しな援助募集か?)。そう聞くと、なんだか胡散臭い香を感じてしまうのは何故だろうか。

ついでに、おまけのデータをひとつ。一人の犯罪者が刑務所に入れば一年で250万、病気をすれば300万、裁判になれば弁護士一人に1000万の税金が使われるそうだ。出所後、更生して多額の金を稼ぐようになったら、かかった費用を返金してもらいたいものだ。

主観で死刑回避

この手の話で、報道の問題提起をひとつ。ある街で帰宅途中の児童の頭をこつんと叩いて、ヤッホーと言って自転車で立ち去るオジサンがいた。彼は児童達にヤッホーオジサンと呼ばれていたのだという。ところがある日、某局のテレビが彼を連続暴行魔として取り上げた。「今日も出ました、連続暴行魔」という風にである。あえなく、オジサンは逮捕され、裁判中というわけである。事件が作られる例である。

いろいろと考えた時間ではある。最後に、以前知人が参加していた社会人による中学生への就いている職業に関する授業を手伝った際、弁護士になったばかりの人の話を聞いたことがある。なったばかりということで、なるまでの過程の話がメインだった。何のことはない、受験生にありがちな話が続いただけだ。

で、私が書きたいのは、その新人弁護士が刑務所で死刑囚に会ったときの感想である。とても残酷な殺人を犯した人物には見えなかった。死刑という判決を下し、一人の人間の命を奪うのはどうかと思う、というのが主な感想である。後半部分はまぁ、法的な立場の者としてよしとしよう。問題は前半部の過大な強調だ。

「残酷な殺人を犯した人物には見えなかった」という主観、それが後半部に繋がっているのはどうだろうか。見た目が悪か否か、それが司法の判断に繋がるとしたらおぞましい。日本一とも言える難解な試験をクリアするのは大変だろうが、それを受けたところで社会の機微をどれだけわかるというのか? むしろ、法を用いる者として必要なものは、何一つ備わっていないのではないかとさえ思えてしまう。

だから、人権派弁護士といっても迂闊には信用できない。ヒューマニズムの精神から儲けのない道を選んだのか、弁護士としての実力のなさ故に、大義名分を背負って無能を誤魔化しているのか。そこのところは、微妙な問題かもしれないのだから。

 

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