秋葉原の通り魔事件

記入日:2008/6/9

昨日の昼に起こった通り魔事件の衝撃は大きく、人に会うたびにその話になるような気がする。各メディアもこの話がトップだ。それらの放送で奴の人生を語られるたび、苦々しい想いに駆られる。どこも、奴が犯したことは許されるものではない、という前置きを置く。そして、そこから事件に至った原因の追及と称して、職場環境やら人生やらを特集する。

それに嫌気が差す。まるで、さも社会環境が奴を狂気に走らせてしまったかのように言い、奴自身の罪深さを薄れさせていく効果を生み出す。そして、奴の希望を叶える。注目されない人生、誰にも理解されなかった人生、それが大きな罪を犯すことによって、「何故、事件は起きた?」という大義名分の下、奴の周りにあった「不幸」が浮き彫りになる。彼の周りにあった「不幸」がピックアップされ、奴はますます「オレは悪くない」と言い出す。奪った命の重みを理解しないまま。

だから敢えて言おう。無差別殺人犯の周辺環境などは報道すべきではない。どんな社会環境に置かれていようが、無差別に人を殺す理由にはなり得ない。殺人そのものが罪である上に、無差別なんて理由すらないことの表れだ。そんな奴、メディアからも抹殺してしまえ。情報の波にのせることもない。報道してどうなる? なにか防げるのか? どこかの阿呆が影響を受けて、「自分も」とか言い出す可能性の方が高いだろうに。

変わらない街

昨日の続き。あの事件、社会的背景がよくクローズアップされる。まぁ、そういったところを探るのは、問題解決の為に必要なことに思える。だが、実際には検証したところで、社会的背景を変えることなどできはしない。つまりは、やったところで自己満足の分析でしかなく、そこから派生した「酒鬼薔薇世代」的な括り、「オタク」という括り、そういったカテゴライズに自分の子ども、あるいは関係のある者が属していないと思うことで、身近な人の狂気という恐怖に対する安心材料を模索しているのだ。

犯人の「社会への不満」が語られるたびに、本当に社会的な不満があるならば、無差別ではなくターゲットを選んで攻撃するはずだと思えてならない。希薄な社会性が無差別の最大の理由とまで言い切りはしないが、自己中心性しか見えない事件だったと云う必要がある。本当につまらない奴だ。何が何でも殺人を犯すと云うのなら、この世から消した方が世界の為だと思う人を狙うべきだ。ただ殺す、これほど愚かしい行為もない。そんな事件があった街だが、行ってみたら事件前と変わりなかった。店の人も、来る客も、事件のことは一切話す様子がなかった。

 

ランダム・ピックアップ